「群像」2017年3月号掲載。
ベンジャミン・フランクリンの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』やラカンの精神分析(さらにマルクス主義、というよりマルクスの思想)をベースに、資本主義の本質がどこにあるか、そしてなぜ商人が発達したイスラーム圏内ではなく西洋で近代資本主義が確立されたのか、を紐解いている。
「群像」2017年3月号掲載。
ベンジャミン・フランクリンの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』やラカンの精神分析(さらにマルクス主義、というよりマルクスの思想)をベースに、資本主義の本質がどこにあるか、そしてなぜ商人が発達したイスラーム圏内ではなく西洋で近代資本主義が確立されたのか、を紐解いている。
五時四十五分起床。暖かな朝。例によって騒々しい麦次郎を出すために外廊下に出ると、善福寺川では早朝から小さな虫たちが不規則に乱れ飛んでいる。甲高いセキレイたちの鳴き声に滑稽なカルガモたちの鳴き声が混じる。そのカルガモたちの泳ぎで生まれた小さな波が朝日で黄金色に煌めく。
その後、麦次郎は合計四回も外に出せとせがんだ。
仕事。某案件の企画書。どうしたらいいのかわからない。3×3マスのマンダラートのメモを大量につくって、ようやく先が見えてきた感じ。アプリではなく手書きだったが。A6サイズの自作のマンダラメモ用紙に、Bの鉛筆(シャープペンシルではない)でガシガシと。
かき揚げうどんと助六で昼食。
午後は別件。今度は赤青鉛筆ばかり使っている。
十七時三十分、日が暮れかけた頃に(実際は日没時間ちょうどくらいなのかもしれない)、かかりつけの内科医へ。風邪はすっかりよくなっているが、微かに咽喉に炎症が残っている程度。この回復具合だと、やはりインフルエンザではなかった、検査キットの「陰性」という結果が正しかった、と言われた。咽喉の治療のために薬のスチーム吸入をする。これで終了。
夕方、妻と今春に就職、進学と重なる妹の子どもたちのお祝いプレゼントをネットで物色しながらコジコジを放鳥。かまってくれない、とちょっとご機嫌ナナメだった。
夕食は鶏トマトシチュー。好物だ。サラダのドレッシングはバルサミコにした。
立ち食いで魚介系のラーメンを食べた。お冷をもらった。だがそのお冷はいつのまにか生クリーム入りのジュースにすり変わっていた。…という夢を見た。五時四十五分起床。
熱はすっかり下がった。鼻水も止まっている。のどの痛みだけが微かにしつこく、こびりつくように残る。快方に向かっているということを動物たちはきちんとわかっているようで、麦次郎は何度も外にだせとわがままを言い、コジコジはぷりぷりと怒りながら水道で水浴びをした。
仕事。昨日、一昨日の半日、と寝て過ごしてしまったが、さほど仕事は立て込んでいない。多少焦りがある程度。某案件に、腰を据えてじっくりと取り組む。
昼食はカレーライス。
午後も引き続き仕事。一区切りしたところで、自宅兼事務所の事務所部分の火災保険の更新契約書を書く。そして別件。
夕食は妻が買ってきたタチウオの塩焼き。パキスタンで獲れたものらしい。なぜかアジみたいな脂の乗り方、身の締まり方。
夜は少し「週刊モーニング」。「グラゼニ」、今まででいちばんエグいお金の話。「CITY」かわいらしくておもしろい。
「群像」2017年3月号掲載。
ナラティブが、一人称から気づけば三人称に変化している、あるいはその逆の変化が起きることをここでは「移人称」と呼び、こういった技法が近年の小説にたびたび登場する傾向を、柄谷行人や渡部直己の評論を引用しながら分析している。小説の大きな魅力であり作品の中心にもなっていた「描写」が、映画などの動画映像芸術の登場により小説で軽視されるようになり、代わりに「語り」という小説ならではの技巧が重視されるようになった、ってことのようだが、確かにそれは納得。語りに限らず、現代作家たちが小説にしかできないことをやろうとしている、ということなのだろう。その最先端が八十年代の高橋源一郎であり、村上春樹であり…。保坂和志は描写という技巧を現代という時代背景の中で変質させてしまった、って感じかな。