わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『河岸忘日抄』

 樽から出てきたぶっといロープ、そしてガラパゴスのコーヒー。
 主人公は、異国の地でほんのわずかの人たちと、親しすぎず、しかし遠すぎずといった微妙な間合いで交流をしている。そして時折、かつては探偵業を営んでいた「枕木さん」という日本の友人と、ファクスや電話で会話を交わす。そんな彼の、交友関係についてのモノローグがちょっと気になったので引用。

 軋轢を避け、衝突を回避し、つまりは他者との深いまじわりを遠ざけているようにみえても、彼はたくさんの自由のなかから、自身の居場所を、他人が想像しているよりはるかに暴力的なしかたで選択してきた。趣味に合う合わないを口にするのは、あまりにもやさしい。好き嫌いでものごとを判断するのは、あまりにもたやすい。そんなに単純な二分法で世界を割り切ることができたら、生はどれほど安楽だろう。趣味に合わないと断じるとき、なぜ趣味に合わないかを説明するのは容易ではないけれど、むずかしいことでもない。こいつはだめだとあきらめようとする内側の声を消して均衡を取りながら、その均衡が紋切り型に陥らず、自分ひとりに可能な心の溝を確実にトレースするレコード針の針圧は、千人いれば千通りある。公約数を求めるのではなく、もう約分できなくなったその最小値がすなわち子になる方向でひとに接することこそが、きびしい試練なのだ。

 そして主人公は、かつて枕木さんと「個性」について語り合ったことを思い出す。

 (前略)つまり、とそこで彼が口をはさむ。分解はできても、もう一度組み建て直すことのできないのが、そのひとの個性ってことかな。たぶんね、と枕木さんはうなずいた。

 自分の居場所の暴力的な選択というものが、個性のスクラップ&ビルドにつながるのだろうか。それは無理だ、と彼はかつて話した。だが、それをあえてやろうとしている。河岸に停泊した船での暮らしは、そんなふうに思えなくもない。