わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『河岸忘日抄』

 どのレコードが足りないのかが、ようやく判明。おそらくは、船に住みはじめる前に大家と聴いたときにそれはなくなった。しかし、そのメロディもジャケットも主人公は思い出せない。
 そして主人公は、自分が住んでいる船を、こちら岸からしか見たことがないことに気づく。彼は向こう岸に渡ったことがない。その流れで語られた「私」の像に関する考察の部分、気になったので引用。

 蒐集し、整序した人間の意図的な操作がからんでいて、真実の声なのかどうか完全な保証は与えられていない回想の数々。問題は、嘘かまことかという以前に、ひとり語りがかならずしもそのひとの人生を描き得ないという、考えてみればじつにあたりまえの事実のほうにある。一人称で統一された語りは、虚構のなかでのみその真実を維持しうる。なにをどう語ろうと、時間の順序をどう替えようと、それは正真正銘の「ほんとう」に記録や事実とは関係のない語りの地平での「ほんとう」になる。だが、実人生のなかの「私」の像は、あくまでも片面に、一面にすぎない。語っている人間のとなりに、正面に、すぐうしろに、あるいは離れたところに誰かがいてその言葉に耳を傾け、立ち居ふるまいを観察し、友人やそのまた友人たちからの又聞きをぜんぶひっくるめてつくりあげた、ずれやひびわれや傷があるふぞろいでいびつな像こそが「ほんとう」に近いものなのである。つまり、けっして焦点があわず、真実かどうかわからい姿こそがもっとも正しいのだ。