わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『河岸忘日抄』

 入院した大家との会話を思い出す主人公。孤独であるという状況をどう捉えるか。それによって人生は大きく変わるのかもしれない。病床で、こんな強気な発言をする大家は孤独であることを悲しむ人間だ。しかし、だからこそ彼は孤独ではない。強がれる相手がいるのだから。もっとも、自分が臆病だと認めながら強がるというおかしな強がりかたなのだが。引用。

 断っておくが、いちばん臆病なのは、このわたしだ、それはよくわかっているさ、だからつぎのように言えるわけだよ。失敗したら、思いきり情熱を込めて、それを人前で告白したまえ、とな。自分は途方もない阿呆だったと、素直に打ち明けてしまえばいいんだ。のっぺりとした法律もどきの冷たいことばで「ほんとうのこと」を教えられたところで、誰がありがたがる? よく言うだろう、他人がこしらえた規範に命を救われるくらいなら、自分のほうにのっとって楽しく死んでいっほうがずっとましなんだよ。

 そして老人は、主人公に夢についてあれこれたずねたあとに(皮肉な答えかたをされてしまったにも関わらず)、こう述べる。

 他人を説得しようとか、何かの宗教や集まりに誘いこもうと考えている連中だけが「他者」なる存在を認めているんだよ、わたしには他人だの他者だのはいないに等しい、そんなものは糞食らえだ、わたしは、わたしにしか関心が内、自分を毛嫌いする限りにおいて他人を忌み嫌う、そういう人間でなければ、この世のなかはやりきれんじゃないか。

 その意見に、主人公は賛同できない

 そうだろうか、と彼は思う。周囲に別の人間が、別の人格が、たとえ相互に無関心であろうと存在していないかぎり、どんなに内にこもっていてるつもりの人間でも存在できないはずではないか。自分はたったひとりだと考えるのは、だから恐ろしく傲慢なことだ。おれはひとりぼっちだと、そう考える余裕を与えてくれているのは、なんの血縁関係も、なんの力関係もない赤の他人たちだからである。