わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

忘れたということ

 なぜそうなったのか、理由がわからない。就寝する前の習慣だったはずだ。意識せずとも手は自然に動いていた。確かに行ったか、過ちはないか。そう確認するまでもなく、確実に行われていた。それなのに、昨夜は忘れた。なぜだろう。昨夜のぼくの心境や行動に原因があるのだろうか。思い返してみる。「ブス恋」を観て、あ〜あ、と思い、風呂に入った。風呂で堀江敏幸の『河岸忘日抄』を読み進め、打ちのめされたような気分になって出た。これがいけないのか。いや、そうではない。風呂で読む小説に打ちのめされてしまうのは、日常茶飯事とは言わぬが、よくあることだ。自分が打ちのめされやすい性格だというだけの話である。そして、というか、あいにく、というか、自分は文学に関しては打たれづよい。打ちのめされても、それゆえにコピーライターをしている自分の境遇と比較し卑下するといったことはなく、むしろ彼ら小説家が書き連ねた言葉を一字一句残らず吸収し、言葉のエキスパートとして肥えてやるんだという野望すらある。「肥える」は「超える」に通じる。ああ、そうか、だから古代の女神像は太った感じのものが多いのか、というのは余談。問題は、毎夜すべきことを「忘れた、ということだ。そうだ、打ちのめされてできたのだ、堀江敏幸に。そのことを日記に書こうと思った。上半身ハダカのままで愛用のアーロンチェアに腰かけ、愛用のiMac G5に向かい、愛用のHappy Hacking Keyboard Professionalを叩いた。はじめに書いた言葉は「アヂイ」だった。はじめに言葉ありき。それはどんな単語だったのか。まともに聖書を読んだことのないぼくにはそれが疑問なのだが、自分の聖書もとい昨夜の日記では「アヂイ」だった。汗はなかなか引かなかった。汗の流れるままにキーを叩き、ときどき消去しては書き直したりした。できあがった日記は短い。要するに、「アヂイ」しか書くことがなかったのだ。たいしたことのない、凡庸なる一日。そこに『河岸忘日抄』の引用を加えた。そのころには汗はすっかり引き、肌は乾いていたはずだ。パジャマの上着も着ていたと思う。つまり、引用している間は「アヂイ」などと文句をいうことなく、冷静になっていたということだ。つまり、昨夜のぼくは冷静だった。ならばなぜ、忘れたのだろう。冷静ならば、必ず気がつき、できたはずである。目覚まし時計のセットが。というわけで、今日は寝坊した。
 午前中は某航空会社パンフレット。暑いためか、花子が少々不機嫌気味。キレないよう気を配る。
 仕事が完全に谷間になったので、午後は思いきって休むことに。新宿に向かい、免許センターで運転免許の更新をする。もう五年もハンドルを握っていない。だから免許はゴールドである。
 つづいて西荻窪へ移動。「貴子鍼灸治療室」で久々に鍼を打つ。貴子先生、元気そうである。相変わらずハダツヤがよい。
 終了後、吉祥寺へ。本屋をはしご。
 夕食はゆでブタのニンニク豆板醤ソース。カミサンの近ごろのお気に入り。