わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『河岸忘日抄』

 数ヵ月ぶりに、しかも予防注射のついでに大家を見舞う主人公。そこでたまたま顔を合わせた大家の顧問弁護士と、これまでの記憶を掘り起こしながら会話するなかで彼は記憶というものについて思いをめぐらせる。大家はかつて彼にこう言った。

 すでに起きてしまった事件の一部始終を漏らす相手が、第三者にぜったい流したりしないなどというまことに疑わしき前提に立っての告白に意味があるとしたら、それは思い浮かんだこと、心をさいなみつづけていることがらを、自分ひとりでではなく第三者にむけて言語化しているといういって人においてだけではないか、作家だの小説家だのと自称する連中が過去の情景を言葉にして外に出してやるのは、そうしてやらないと正真正銘の記憶にならないからだよ、そもそも自分のことを隔意なしにだらだらとさらけ出すような真似が、まともな人間にできるものか! 埋められない穴ぼこを、第三者の親切な読みや誤解で埋めてもらう寸法だよ!

 記憶は語ることで記憶としての体裁を整えていく。語られる前は、とらえどころのないものだ、と彼は考える。それは彼の今の状況に似ているのかもしれない。そして、彼の前に船に住んでいたはずの謎の女性についても、大家が重い口を開いて「語る」ことで記憶として甦るのではないか…。

 ひとは、なにかをつねに取りこぼすために生きている。そうでなければ記憶装置の要領は破裂して、なにも残らなくなってしまうだろう。ならば彼は、彼自身は、取りこぼしてきた過去とどのように折り合いをつけながら現在を生きているのか。

 もうすぐ終章である。彼は動き出すのだろうか。それは記憶と折り合いをつけることであり、あらたな記憶を生み出すことでもある。そのためには、言葉が必要だ。