わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

ミサイルと画用紙

 七時起床。今日も灰色の雲が切れ目なく延々とつづく、地味な空。昨日、おとといはいくぶんではあるが雲の重なり具合に表情があった。曖昧なものの上に曖昧なものを重ねても、曖昧であることには変わりない。梅雨時の雲のかたちこそ曖昧の最たるもののような気がするが、それは曖昧に曖昧を重ねても、曖昧のままではなかったような気がする。重なりとともにズレが生まれ、そこからわずかに光が透ける。重なれば重なるほど光は遮られるが、そのぶん雲のかたちはちからづよくなる。今日の空からは、そういった表情がまるで読み取れない。平坦。グレーの絵の具で塗りつぶした空。
 午前三時ごろから八時半ごろまでにかけて、この空を、最初はまだ雲の様子などわからぬ暗闇だったかもしれぬが、この空を、北朝鮮のミサイルが飛んでいったとニュースで知った。
 十時、外出。出かける間際から急に雨が降り出した。篠つく雨。しかし雲の表情に変化はない。なのになぜ、これほど大きく天気が変わるのか。
 今は雨を降らせている、今朝と変わらぬ雲を眺めながら駅まで歩く。小学生のころ、図画工作の写生のとき、ぼくの絵はかならずほかの生徒よりも紙がくにゃくにゃに曲がってしまったことを思い出した。空の青を塗る。空は真っ青な晴天だったり、ところどころに優しいかたちの雲が流れていたり、なにか身の回りのものやドウブツなどに似た、はっきりしたかたちをした雲がどんと(家々に隠れて見えないけれど)地平からそびえたっていたりする。ぼくはそれを執拗に、正確に描こうとする。空の色にはムラがない。あるのは地平にちかづくにつれてだんだんうすくなるグラデーションだけだ。だから空を塗るときに、ムラをつくってはいけない。そして空は重苦しい色であってもいけない。澄んだ青空はもとより、重たく重なるくらい雲ですら、光を透かせる透明感がある。だから、薄く塗る。いちばん近い空の色をパレットの上でつくり、それを水で薄めながら、軽く、軽く、塗っていく。塗り終わる。だが気に入らない。鮮やかさがでない。透明感がない。だから塗り直す。何度も繰り返し塗り重ねる。重ね塗りすれば透明度はどんどん失われていくのは水彩絵の具の特性であるが、バカだからそれがわからない。納得するまでやる。だが最後まで納得できない。画用紙は水を吸いすぎて、そして何度も筆にコシャコシャやられて限界まで痛んでいる。ぼくはそれを提出するのが恥ずかしい。くにゃくにゃになっていない他の友だちの画用紙が、自分のより高級に思えてくる。おかしな劣等感だ。しかしちゃんと絵を描けたことだけは自信がある。
 その、くにゃくにゃになった画用紙が頭からなかなか離れない。
 十一時、霞ヶ関のD社で打ち合わせ。外務省の前は警備がいつも以上に厳しくなっていた。路肩に何台も報道関係のクルマが止まっている。拡声器で「日本は平和ボケしている! 今すぐ核兵器を配備せよ!」と叫んでいる団体がいた。
 十四時、帰社/帰宅。雨は小降りになったが、空の表情は変わっていない。
 残っていた仕事を片づける。雨は強まったり弱まったりを繰り返している。書斎に籠っているので、空は見ない。