[読書日記]ではまったく触れていないが、ほぼ毎日、少しずつ読んでいる。今日は夕方に時間をつくれたので、第3章「知の可能性と不可能性」を一気に読んだ。知ってのは「言葉」と置き換えて理解してもいいのだが、そうしたところで本章の曖昧さ(難解さ、ではない。具体性に欠けるというか。まあ哲学・思想なんだからしゃーないっちゃしゃーないが)。マルクス主義のいうところの「交通」の概念を取り入れた(のかな?)、主体を「極」で考えるという著者の発想は素晴らしいと思った。構造主義にはこういう発想がないよなあ、なんて、たいして詳しくもないのに痛感。「身体知」という考え方も構造主義の範疇から大きくはみ出ていておもしろいと思った。だが、これまたヘーゲル的な弁証法からは抜け出せていない、のかもしれない。そもそも言語化が困難な身体知を「知」と呼んでいいのか、という疑問も感じてしまう(「知」でなかったら弁証法の対象ではない、って考え方もあるか…)。まあ、哲学をしっかり学んだわけではないぼくが思っていることだから、大した問題じゃないだろうし考え方の底も浅いのだろうけれど。
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