わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

「グーグーだって猫である」

 巨匠、大島弓子原作の、手塚治虫文化賞受賞作の映画化。乱暴に要約するとペットロスからの恢復の物語なのだが、そこにアシスタントの女の子の恋が終わるまでのエピソードや、大島をモデルにした主人公・麻子のじれったい恋や卵巣ガンとの闘病などが挟み込まれている。重層化された悲しみがすべて麻子の切なくて自分を殺すような生き方に集約していく。観れば観るほど、切なくなる。グーグーの愛らしさでさえ、それを吸収しつくすことはできない。
 特別協賛の「花王ニャンとも清潔トイレ」が前半でやたらと目についたり、ドウブツの擬人化は個人的にどうしても受け入れられなかったり(大島作品、これが原因でなかなか読めない)、上野樹里ちゃん演じるアシスタントの恋物語とNYへの留学出発がなんだか未消化だったり、樹里ちゃんの恋とグーグーとの接点が見えなかったり、死んでしまった前の猫であるサバとの夢の中での再会のシーンで(ここで擬人化されちゃうのよ)グーグーの存在が完全に無視されているのがとても不自然というか物語的に幅の狭い演出のような気がしてしまったり、変なストーカーみたいなオッサンが誰だったのかよくわからなかったり、加瀬亮の演技が雑だったり、そして何よりもグーグーの存在が全体的には添え物というかマスコット的で物足りなかったり(もう少し日常的なエピソードを絡めたりできなかったのかなあ)とアラを探すとキリがないのだけれど、そんなことなどまるで気にならなくなるくらい、擬人化(という手法はやっぱり萎えるのだけれど)して登場したサバと麻子が互いの愛情を確認しあい感謝しあうシーンは理屈抜きですばらしく、涙を誘った。ドウブツを飼うということの意味、悲しみ、そして喜び、すべてをこの数分間で語り尽くしたと思う。個人的には、サバが麻子に「グーグーをよろしくね」と言うのを聞きたかったけど。
 もう少し、グーグーとともに未来に向かう感覚(それが暗かろうが明るかろうが構わない。生きる意志さえ強く感じられればいい)がうまく表現できれば、とんでもない傑作になっていたと思う。

グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)

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サバの秋の夜長 (白泉社文庫)

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綿の国星 (第1巻) (白泉社文庫)

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