わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』読了

 朝日新聞で「折々のことば」を毎日連載している鷲田清一の、二十年くらい前に書かれたファッション論。「わたし」と世界との関係を、ゆがんでいてすべてを認識しきれない、つまり自分自身でありながらも自分から遠く想像で全体像を掴むしかない危うい存在である「身体」、そしてその危うい存在である身体を包み込む衣服が時代や社会、そして自分自身の関連性として表出したものであるモード=ファッションについてを、高校生に向けて語るように書かれた傑作。高校生向けとしては大人のぼくが読んでも難解な部分があるのだけれど。

 服という存在の本質と「わたし」や「世界」との関係を読み説くヒントを、作者はいわゆる流行を生み出す存在としてのファッションよりも、当時の若者に支持されていたグランジや、もっと前の時代のヒッピー、そして80年代以降モードをブチ壊しつづけることで新たな波を起こしつづけた(そして現在ではある意味古典にもなりつつある)川久保玲三宅一生山本耀司らの仕事に見出そうとする。ぼくは大学生のころ、まさにコムデギャルソンやヨウジヤマモト/ワイズの洗礼を受けていて(ファッションがDCブランドから渋カジだのアメカジだのといった方向にシフトしていく最後の大きな波が来ていたころで、ギャルソンやヨウジの服のことを語ると、「ホットドッグプレス」や「メンズノンノ」でファッションをかじりかけた同世代のヤツらからは変人扱いされた…。アートや哲学がもっとも軽視されていた時代のような気もする。ニューアカがほぼ絶滅してからの話だからね。ぼくは絶滅後に浅田彰とか柄谷行人とか蓮実重彦を読んで、たいしれ理解できぬままに、スゲエスゲエを連発していたのだけれど)、はっきりと認識できていたわけではないけれど、作者とおなじようなことをぼんやり考えていたから、この内容にはとても共感できた。いや、共感というよりは、自分の考えていたことを整理し深めてくれたって感じかな。

 ちょっと長くなるけれど、最終章の一部を引用。

 

 どこをめくってもアンバランスばかり目に入ってくるぼくらの存在、それへの感受性が〈衣服〉という支えを呼び込むのだけれど、衣服はそのアンバランスを裏返し、ぼくらの小さな〈自由〉に変えてくれる。その自由とは、時代が陰に陽に強いてくるあるスタイルへの閉じ込めに抗って、「こんなのじゃない、こんなのじゃない」とつぶやきながら、たえずじぶんの表面を取っ換え引っ換えする、あのファッション感覚のことだ。それは、人生の「はずれ」を「はずし」へと裏返す感覚だ。じぶんが背負っているさまざまの人生の条件、そこにはひとそれぞれ、いろんな不幸、いろんなハンデがある。

 そういう「はずれ」を、軽やかで機知にとんだ時代への距離感覚(「はずし」)へと裏返す感覚、それがファッション感覚だとすれば、もっとスマートなひと、流行にそつなく乗り、いずれマジョリティもしぶしぶついてくるはずのものをいち早くとり入れるスタイリッシュなひと(流行人間)が、じつはもっともアンファッショナブルであるという事実は、逆説でもアイロニーでもないのだ。

 はずすこと、ずらすこと、くずすこと。それは職人の美学であり、ダンディズムの極であると同時に、弱きものの抵抗であり、そして着るひとの第一歩でもある。

 

 ただ、ファッションの大量生産化と流行という名のコモディティ化が90年代よりも一層進んでしまった現代においては、「はずし」「ずらし」は小さなものは許容されるが大きなものはイベントでもない限りは「KY」などと評され、ひどいときには嫌悪や攻撃の対象とされてしまうようになってしまった。ファッションの世界だけでなく、社会そのものや経済が萎縮していることの表明だと思う。非常に悲しいけれど、また80年代に戻っているような風潮もあるから、今後には期待したいけどね。

 

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

 
ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)

 
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

 

鷲田清一の作品はこちら。

 

たかが服、されど服 -ヨウジヤマモト論

たかが服、されど服 -ヨウジヤマモト論