「群像」2016年12月号掲載。まだ12月号を読み切れてないんだよね。
日本語は主語を省略できるという特性があるが、ゆえに日本文学には「人称」という概念はないのではないか、という仮説のもと、係助詞「は」と格助詞「が」の違いなどを、金谷武洋、三上章といった研究者の説を借りながら、徹底的に掘り下げていく。「は」は、節や文を超えて作用するスーパー助詞だ、という考え方はおもしろかった。漱石の『猫』でこれを説明している。
冒頭の題目「吾輩は」に、「名前はまだ無い」以下の3文が「おんぶして」おり、結果「は」は、ピリオドを3回にわたって越えている、と分析するのだ。つまり、以下のような図で示せるのである。
「吾輩は」→猫である。
→名前はまだ無い。
→どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。
→何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事丈は記憶して居る。
(中略)そして「このスーパー助詞が複数の述語と持つ関係は「文法関係ではない」。
中学一年生で英語を学びはじめることで多くの日本人は「主語」という存在をより強く明確に意識するようになるのだけれど、そもそも日本語には主語という概念が存在しないのだとしたら、この「主語の認識」がぼくらの会話や言語文化、言語芸術にどのような影響を及ぼすことになるのか……。