「群像」2017年2月号掲載。
奴隷というと差別的で人権無視なイメージがあるが、使役とか労働とか命令とか服従とか階級とか主従関係とか、そんな言葉を使って説明すればなんとなく納得できそうな。そこには責任の有無という問題も深くからんでくる。そして、これらの根幹にあるのが言語の発明ということであり、その言語は本来聴覚ではなく視覚に由来するものだ、という考えが展開されている、とまとめちゃっていいのかな。間違っているような気がするが。
さらに三浦は、言語から宗教的感動と芸術的感動が生まれ、そこから異常な感覚や嗜好が派生していく、とも述べている(ってまとめ方しちゃってホントにいいのか?)。おもしろいので、ちょっと引用。
宗教的感動と芸術的感動が交差するのはいずれも言語という現象の核心に触れているからである。感動はその場所以外からは発生しないとさえ言っていい。人間を特徴づける私という現象そのものが言語の現象としてあることを思えばそれは当然のことだろうが、しかし、この現象は奴隷を生み貨幣を生み差別を生み階級を生み戦争を生みもする。サディズムを生み、マゾヒズムを生み、そのほかさまざまな心的異常を生みもするのである。言語を獲得することによって成立した人間という現象は、ほとんど同じほどに非人間的なものを含みこんでいたのだといわなければならない。
人間の考えるという行為の根幹にある言語というものが、社会を豊かにすると同時に社会のゆがみをも生みだしていく。だからゆがみはゆがみじゃなくてもっと本質的で根源的なものなのだ。小手先だけの対策では決してなくならない。