わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

三浦雅士「言語の政治学(8)」 土着と外来

「群像」2017年3月号掲載。

 日本文学、そして日本語の底流に仏教があるのでは、という考えから、仏教学者たちの思想に踏み込みはじめているのだが、リルケの思想が芭蕉本居宣長に通じている、と主張する井筒俊彦という仏教学者の『意識と本質』という作品の引用部分がとんでもなくおもしろい。ちょっと引用。

 

(前略)我々が先に見た禅の「転語」、すなわち婚言語の正規の場合と構造的に類似した事態がここにも起る。しかも、使われるコトバは日常的言語と、表面的にはまったく同じコトバ。そこに禅者ないし詩人の言い知れぬ苦悩がある。リルケのような詩人に一種の名状しがたい焦燥感があるのはそのためだ。深層体験を表層言語によって表現するというこの悩みは、表層言語を内的に変質させることによってしか解消されない。ここに異様な実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する。

 

 三浦は、この引用から続けて、日本の伝統に本覚思想、如来蔵思想が貫通している、そしてこれらは仏教ではなく、日本土着の思想であり民俗宗教だ、と主張する。定家や芭蕉が親しみその作品のベースとなっているのは、仏教ではなく、東洋哲学なのだという考え方は、感覚として納得できる。でも、きちんと理解するためには、仏教のことをもう少し知っておくべきかな。

 

 

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

 

 

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