「群像」2017年4月号掲載。
仏教の本覚思想や進化論、さらにはヘルマン・ヘッセとトーマス・マンの作品の決定的な違いなど、さまざまなソースを引っ張り出しながら、原言語としての視覚について深く論じているのだけれど、いろんなものに言及しすぎていて、ちょっと理解がおよびきれない。でもまあ、要約すれば、視覚があってこそ世界は、そして言語はなりたつ。そして言語より以前に、あらゆる生命は視覚を獲得した瞬間から、相手を「だます」というコミュニケーションをつづけてきた、ということかな。だますというと聞こえは悪いが、あらゆる芸術表現は目の前に仮想的な世界を構築するという行為であって、それは架空である限り、鑑賞者をなんらかのかたちで(作為的であるにせよそうでないにせよ)だますという使命を担わされている、と言えなくもないわけだな…。