「群像」2017年5月号掲載。半分くらい読んで、忙しくなったのでしばらく放置しちゃったんだよね。
司馬の「街道をゆく」に収録されている「そば」というエッセイと、小林秀雄の「無常といふ事」の共通点と差異を見出した著者は、「俯瞰する」という視点の有無から死生観を読み取り、さらに、司馬に顕著な俯瞰の、そして自然との一体化するような視点を文学に特徴的なものとし、松浦寿輝の最新作『名誉と恍惚』は、ぼくの大好きな作品のひとつである中上の『枯木灘』の一節を紹介する。本覚思想を学ばずとも、詩人や作家には固有の感覚であり、この感覚こそが世界の謎を解く鍵であり、そこから「生と死の逆転」というイメージを抱くにいたった、このイメージは現代日本思想の根幹の一部になっていると書いている(ように読める。間違ってるかもw)。
問題は、この「生と死の逆転」という概念。仏教的な考え方ではあるが、ぼくには仏教という特定の宗教の枠を超え、芸術の基盤である、とも思えてくるんだけどね。ちょっと引用。
人間にあっては生と死が逆転している。人間が生きているこの社会は、なかば以上、死に属している。死者に属している。いや、人間の生そのものがなかば以上、死に属している。ということは、人間の全体が集団的に詐欺にかけられているというに等しい。
むろん、人類自身が人類を詐欺にかけているのである。その対象化が宗教であり、その破れ目のようなものが、死であり、芸術である。人類は、詩や芸術によって、つまりその梵我一如感によって、ほっと息をついているようなものだ。
この破れ目の体系化、秩序化が「政治」であり、ゆえに言語は芸術的側面と政治的側面を「死」を媒介として共有する…ってことで、いいのかなあ。