わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

カイゲン、ヅケ、フカン

 六時起床。

 平成最後の日曜日。この「平成最後の」というカンムリ言葉にもいい加減飽きはじめているが、改元し数カ月もすれば肯定的に、そしてある種のノスタルジックな感情をもって振り返るようになるのか、それとも冷静になり、翻って、というつなぎ方が正しいかわからないが、翻って、元号不要論なんてものにかぶれはじめてしまうのか。令和と書かれたスナックやTシャツ、手ぬぐいなんてものを見ていると、なぜ改元がここまで世間一般に肯定的に受け入れられているのか、そして改元で一儲けしようとする輩がわらわらと登場するのか、その理由が知りたくなる。ま、たぶんこの欲求はそのまま放置しちゃうのだろうけれど。

 仕事。某広報誌の企画。妻からLINEが入っていたが、仙台のイベントはかなり盛況らしく、連日オーナーさんにご馳走になっているそうだ。

 夕食はカツオの刺身を食べた。少し残ってしまったので、ヅケにしておいた。

 

 三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』を久々に。言語は意思疎通のためにあるのではなく、自己を俯瞰するためにある、という考え方。チョムスキーに由来しているみたい。子どものころから「どうして心のなかで自分は独り言をいいつづけちゃうんだろう」と思ったり、「思い出が自分の見た景色じゃなくて自分もいる景色になってしまっているのはなぜだろう」と思いつづけていたけれど、その答がここにあるのかもしれない。本来、人間とは孤独な存在なのだ。さみしいということではない。一人の自分という存在を、主体的にだけでなく、客体的にも見られるということ。むしろ、外からの視点を仮想的につくりだす力がある、ということ。それが、他の動物と人間の決定的な違いなのだ、ということ。ふーむ。

 

孤独の発明 または言語の政治学

孤独の発明 または言語の政治学