わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

依存

 衣替えであるが、近ごろはファッションが暦よりも早く動くから、この日にあわせてタンスの中身を入れ替える、などということをしなくなったのではないか。官公庁では今日から九月末まで上着とネクタイを省いた簡略的なスタイルで仕事に臨み省エネ効果を狙うらしいが、案の定この「クールビズ」なるスタイルで登庁したものはまだ少ないと聞く。ネクタイとスーツというスタイルに、日本人男性がどれほど依存していたかがよくわかる。逸脱したら、戸惑うだけだ。戸惑うくらいなら、多少非難されようと今までのスタイルを貫く。こんな思考回路を「保守的」と呼ぶのだろう。さて、ぼくはどうか。一年中黒づくめだから夏も冬もないといえばないが、素材選びやシルエットで、それなりに季節は楽しんでいる。どんなに偉いひとと会う場合でも、冠婚葬祭以外は絶対にネクタイは締めない。貫けばポリシーであるが、見方を変えれば見苦しいこだわり、いじわるな表現をすれば自分の殻に閉じこもったファッションとも言え、保守的でありつづけようとする官僚たちと五十歩百歩だ。
 服とはいったい何なのだろう。
 
 六時、起床。七時、事務所へ。かなり仕事が空いてきた。G社企画のほかは、事務処理や内容の古くなった会社案内の見直しなど。二十時、帰宅。
 
 ここ数日、愛猫花子を廊下まで出している(http://www.catkick.com/namake/ ※なぜこんな状態なのかはhttp://hanamugi.exblog.jp/参照)。ついたてがあるのでリビングのそばまではいけないが、それでも十分に麦次郎の気配は感じられる。それは麦のほうもおなじようで、花子の気配を感じて大声で鳴きわめく。会いたい、どこにいるのだ、と言っているのだろう。鳴き声を耳にした花子も落ち着かない。こちらは麦に会いたいというより、リビングに行きたいというだけだとは思う。が、異なる環境に関心が向かいだしたことはよい傾向だ。すこしずつ慣らし、同居生活をなんとか取り戻したい。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。往生に立ち会うことは、平安時代は忌み嫌われていたらしい。それでも、ひととの別れである。死という現象から何を感じ取っていたのだろうか。仏教色の濃い当時の文化は、無信仰が当然の現代人にはとても想像できない。
仮往生伝試文(新装版)