わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

季節/桜道

 季節は外側からやって来る。ひとを、陽射しや風や雨で被い、空の色の微妙な変化を見せ、草木の色の変化を見せ、花々の香りを感じさせる。ひとつひとつの、兆候ともいうべき要素にぼくらは季節の断片を感じ、イメージの中でそれをひとつのかたちにまとめあげる。だが、そこには本当に外部の要素しかないのだろうか。イメージをまとめあげるのはぼくらの主観ということになるが、ほかに、そこに主観以外の、自分が持ち込んだ要素はないだろうか。
 記憶がある、と気づいた。…確かに記憶は大切な要素かもしれない。だが、これはやはりイメージをまとめあげるための主観の一部と考えるべきだ。主観以外の、自分の要素。そうだ、たとえば汗。体温。身体の芯にこもる熱の感覚、あるいは身体の芯から暖かさが消えていく感覚。外部からの季節的な要素に身体が生理的な反応を示したといえばそれまでだが、なぜだろう、身体の内側からも季節がやって来た、と考えてみたくなった。天気や空や植物からだけではなく、自分の内側からも夏を感じる。双方がぴったりと重なれば、バラバラだった夏の要素は明確なイメージとして組み立てられる。そんな感じかたはないだろうか。
 身体が季節に負けることはあっても、季節と重なって生きることがなくなったように思えてならない。人間は季節と、言い換えれば環境と共生できないのだろうか。人間とは自然に対峙することで存在しつづける生き物だ、といえばそれまでだが、やはりそれでは悲しすぎる。季節とともに生きたいと思う。自分も季節の一部になりたいと思う。
 
 六時、起床。七時、事務所へ。あちこちの一戸建ての垣根を可憐に――不釣り合いなくらい可憐に――彩っていた薔薇が終わりかけている。ジャスミンはとっくに花を落とした。紫陽花がすこしずつほころびはじめた。近ごろは花の小さなツツジがまだ咲いているのをよく見かける。五月の連休を過ぎるとたちまち溶けるように花が落ちたものだが、この小さなツツジは新種なのだろうか。
 E社企画にのめり込むようにして取り組んだら、集中しすぎたのか異様に疲れた。
 二十時三十分、店じまい。「喬家柵」で夕食をとってから帰る。空芯菜、イカと空豆の炒め物、水餃子、小龍包。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。定家「明月記」の紹介、というか古井流の読解。飢饉で餓死するものが街に溢れ、死臭が満ちる様子を淡々と日記に綴るが、一方で自らが中納言の位につけないことを延々と嘆きつづける。死に対して鈍感になる。これも一種の狂気の形か。
 武田泰淳『身心快楽』読了。最後を飾る「さくらの路」というエッセイの締めくくり、妙に心に突き刺さってくる。ちょっと引用。
   ☆
 
 いつか、母を案内して出版社の熱海の寮へ出かけたことがあった。山の道に桜吹雪が吹き荒れていて、桜の花びらが狂ったように降りかかった。父が死んで未亡人になったばかりの母は、そのような華やかな光景に接したことはなかったし、体も衰弱していたが、渡しは桜吹雪の下を、彼女をひきまわし、どこまでも歩いて行った。母は息せききらせてついてきたが、それは、かなり無理な強行軍だったらしい。彼女は、そのあとで入院せねばならぬような重病患者になってしまった。
 桜の花というものが人生の各時期にとって、それぞれ、思いもかけぬ深い意味を与えてくれるのであるから、つぎつぎに現れてくる新しい「さくらの路」がどのような神秘的な、あるいは、未来的な啓示を投げかけてくるかは、何人にも予想できないのである。
 さくらの路よ、変幻きわまりなき、さくらの路よ、わが前にあらわれ、死に至るまで我を導きたまわんことを!