わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

沸騰/欠音

catkicker0012005-06-22

 六時、起床。梅雨時の雨音をどうしても思い浮かべることができない、ということを以前日記に書いたような記憶がある。弱く、長く、散るように降る雨という印象がいつごろからか形作られている。そこに音はない。あるのは拡散するあいまいなベクトルと、肌をしっとりと濡らす感覚だけだ。しかし、今朝は雨音で目が覚めた。窓を開ける。雨足は強いらしく、アスファルトを打つ音が倍のボリュームになって部屋に響いた。ムクリと起き上がった麦次郎が窓辺に寄る。外を眺める。雨音も聞いているのだろうか、とふと思った。猫も耳を澄ますようにして生きるドウブツである。ニンゲンと似ている。
 
 七時、事務所へ。L社ウェブサイトに集中する。午後、晴れ間が差した。急に部屋が蒸してくる。灼熱の季節には身体中の血液が沸騰しそうだ、などと冗談半分によく言うものだが、炎天下では本当に沸騰する。比喩だとしても的を射ている。ならば、じつはその沸騰に向け、すでに体温の湯沸かしははじまっているのではないか、と考えた。大鍋に大量に水を張れば、沸騰するさまは緩やかになる。少しずつ暖まり、柔らかな湯気を奥ゆかしげに拡散させる。ある時点を過ぎるとそれが激しくなる。泡立ち、激しく湯気を放射する。激しい湯気を真夏の盛りだとすれば、鍋の中の緩やかな水温の上昇こそが、梅雨の晴れ間なのではないか。肌に触れてみた。皮膚の中で血液が蒸れていると感じた。すこし汗をかいた。
 二十時、業務終了。
 
 ストレッチしながら久々にゼルダの『C-ROCK WORK』を聴いた。レコードはまだ保管してあるが、CDはかなり処分した。ゼルダも大ファンだったのだが、この作品以外はみな売り払った。もう聴くまいと判断しての売却だったが、残したものをちょっとでも聴いてみると、『カルナヴァル』や『Dancing Days』が聴きたくなってくる。贅沢なもんだ。
 みんなどうしているだろう。サヨコは地味にライブ活動をつづけているらしい。チホさんは夫のどんと没後はヒーリングミュージックの大御所になりつつあるようだが、作品を聞いたことはない。アコさんはさっぱりわからん。昔誰かのバックでドラムを叩いていたのをチラリ見たが、誰だったろう、思い出せない。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。偶然か、こんな文章にぶつかった。偶然が必然に思えてくる。引用。
   
   ☆
   
 十何年ほど前にしきりと聞いたチェンバロのレコードをかけてみた。気楽に、無責任に流した。昔のようにひしひしと聞くのは好まない。ひさしぶりのせいか清新にはたどれた。しかし何かが聞えなくなっている。情感だろうか。かわりに、昔は聞えなかったはずの、なにか音楽とも別の、あらわなもの、ひどく単調ながら内から切迫する、夜が冷え込んで梁が軋むみたいなけはいが、聞えかかる。やがて、剣呑な興味だと感じた。歳月の隔たりをじかに耳で聞き取ろうとすることは、、生身の人間は差し当たり慎んだほうがよい。生身ではいけなければ、何ならよいか、わからないが。気を逸らすためにガラス戸を開けると、外はいつか大風が渡り、ゆすられる木の音に室内の音楽は細かくまぎれ、戸を閉めきると、危なげのない曲に落ち着いた。そのまま片面だけ聞いてやめた。
   
   ☆
   
 ぼくもゼルダを聞いたとき、何かが聞えなくなってはいなかったか。他の気配を聞くことは なかったか。ないと言えば嘘になる。
 

 C‐ROCK WORK