わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

断識/涼装

東京は曇り、最高気温三十二度。

 五時、寝汗で目が覚める。あと一時間したら起きなければ、そう思った次の刹那、六時になっていた。一瞬にして一時間寝た、つまり一時間もの間意識のスイッチを切っていたことになる。寝汗ならおそらくこの一時間のほうがかくはずだ。それが不快なので、無意識に深い眠りについたのか。これも順応性と呼んでいいのかどうか。ともかく、夏の朝である。
 
 七時、事務所へ。
 梅雨明け宣言なるものがまだあるのか廃止されたかはよくわからないが、明けたか明けぬかも知らぬうちに、温度だけは一朝前に真夏である。三十二度。歩けば汗ばむ。立ち止まればさらに汗ばむ。日陰を探してもアスファルトの反射熱のせいか涼を取れたと感じることはない。すれ違う女性のノースリーブがうらやましくなるが、よく見ればぼく以上に汗をかいているひともいる。しかし、ぼくも普通の三十代の社会人に比べたらかなり軽装だ。ジャケットはあるが、握っているだけだ。ネクタイはしない主義だから首もとはさほど暑苦しくない。
 
 十時、小石川のL社へ。うれしいトラブルあり。まさに怪我の功名。先日神符をいただいた大神神社の神様のおかげか。
 十一時、霞が関のD社へ。省庁はクールビズばやりのようだが、百貨店の戦略に乗りそれ相応のシャツとパンツで装いを楽しもうとするひとは、見たところ少ない。ほとんどのひとが、ふだんから着ているワイシャツの一番上のボタンだけを開け放ってクールビズに早変わりしている。上着は持参か会社に置いておき、いざというときネクタイを締めれるようにする処置か。それとも装いを楽しむという嗜好がないのか。ただひとつ言えるのは、ネクタイを締めることを前提につくられたワイシャツは、第一ボタンだけを外すと二番目のボタンとの間が狭いので、襟が極端に左右に広がってしまうのであまり見栄えがよくないということだ。いかにもネクタイだけはずしました、と見えてしまう。宿酔いのあとのよれよれ姿にもどこか通じるところがある。日本人男性がいかにネクタイなるものに依存していたか。依存とは停滞である。前進ではない。歴史の中で伝統を守ることも文化ではあるが、伝統への依存は文化をないがしろにする姿勢が前提となる。いわば伝統への安易な甘えだ。
 
 二十一時、店じまい。夕食はゴーヤチャンプルともずく。沖縄づくし。久々に鍋を振ってみた。
 
 多和田葉子「無精卵」。浮浪児らしき少女が主人公の家に紛れ込む。うーん、「犬婿入り」とおなじパターンかな。
 古井由吉『仮往生伝試文』。過去の旅の記憶の回顧。焦点移動の鮮やかなこと。静かにうねりながら事象の核心をかすめるように描く文体。テクニカルだなあ。