夕べも花子に何度も起こされ、そのたびに違った夢を見た。だが内容は覚えていない。真夜中の暗い部屋の中に強く浮かんでいる、何かをぼくにせがむたびに見せる花子のわがままな表情だけが記憶に残る。
六時、起床。七時、事務所へ。某大学の入学案内など。
午後、吉祥寺へ。パルコの「リブロブックス」にて大学案内の資料探しのついでに、武田泰淳『司馬遷 史記の世界』『わが子キリスト』、いとうせいこう×奥泉光+渡辺直己『文芸漫談』を購入。十六時三十分、カイロプラクティック。
二十時過ぎ、業務終了。満月が浮かんでいる。卵の黄身みたいだ、とカミサン。昼間の熱気が空に残っているのだろうか、月は気のせいかほんのりと赤い。月面の地形がつくる陰影が、ニンゲンの顔のように見えた。赤らんだ丸い顔が、夏の夜空に浮かんでいる。中学時代、顔がまんまるなので「まるさん」と呼ばれていた友人がいたことを思い出しながら満月からすこし目を離すと、まばらな雲が月明かりを浴びてぼんやり光っているのに気づいた。照らされれば、光る。照らされなければ、光らない。そんな単純なことが、妙なくらい新鮮に感じられた。
高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』。「ポラーノの広場」。売春クラブの待合室の描写からはじまる。作者は、貨幣経済に組み込まれてしまった現代の性愛、そこにうごめく様々な感情や欲望や言葉を書きたいのだろうか。ただひとつ言えるのは、コギャル言葉に無理がある、ということ。酔っぱらったオッサンが無理やり、おれは何でも知ってるんだぞー、ナウいんだぞー、と言わんばかりの勢いで、ときどき間違えながら流行語や、本人は流行語と思い込んでいるものの、とうの昔に死語となった悲しくも恥ずかしい言葉を使いつづけるのを目の当たりにしたときの、あの気恥ずかしさと同じような何かを感じてしまう。
武田泰淳『司馬遷 史記の世界』
武田泰淳『わが子キリスト』