わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

灼陽/苦瓜/魂職/鳥泳

笑点の顔。円楽よりこっちでしょ。

九時起床。夕べは二十三時に床に就いたから、十時間寝たことになる。これだけ蒲団の上にいつづけたのは何ヶ月ぶりだろう。もっとも、二度ほど花子に起こされはしたが、熟睡したという満足感は高い。とはいえ、寝過ぎると頭痛に悩まされる体質であるのがやっかいで、大抵の場合、起きてから二、三時間もすると頭痛がやってくる。今日も例外ではないが、何も手に付かなくなるほどではないので、いつもの休日、といった感覚を貫いた。
 
 午前中は掃除と読書。起きたときから陽射しは高く汗がじっとりとパジャマを濡らしているような有り様だから、掃除だ、片づけだとちょっと身体を動かすだけで、たちまち汗が噴き出してくる。休日の昼間はエアコンに頼りたくない気持ちがより強くなるから、汗拭きのタオルが手放せなくなる。首からタオルを巻き、ヘボヘボに痛んだTシャツと半ズボンで掃除機をかける様は、他人様にはあまり見せたくないものだ。他人に公開する義務も必要もないものがプライバシーだとすれば、休日のヘッポコスタイルも立派なプライバシーだ。
 
 午後から吉祥寺へ。強い陽射しを避けようとカミサンは日陰ばかりを選んで歩く。横断歩道が赤なら、そばに日陰がなければあるところまでジリジリと下がる。ところがぼくは学生時代陸上部で陽の強さも暑さもお構いなしに疾走していたせいか、暑いから日陰に、という発想をなかなか持てない。ところが三十六歳の身体は正直で、すぐにばてはじめるから困ったもんだ。三つ子の魂百まで、というが、十六歳の魂もまた、棺桶まで持っていくことになるようだ。
 玄関マット、霧吹き、猫缶など購入。パルコの「リブロブックス」で、野坂昭如『東京小説』、『群像』九月号。
 
 夕方からは、猫たちをふたりともリビングで自由にさせ――ただしリード付き――、自分たちものんびり過ごす。「笑点」「バンキシャ」「鉄腕DASH」と連続して観る。夕食はぼくがつくった。ゴーヤチャンプルーと、豆もやしのゴマ油炒め。
 食後、昼間再放送していた江原啓之の特番を観る。ぼくにも若干の霊感があるようなのは子どものころからの奇妙な体験で自覚しているが、死んでも死にきれず、生きる者たちに想いを伝えようとする魂がある、などということまではとても感じ取れない。魂のことを生業とする者は、偉大である。
 
 ぷちぷちと風呂に入った。ぷっちゃん、はしゃぎすぎて湯船に落ちた。羽根をばたつかせて、二秒ほど湯の中をスイと泳いだ。
 
 奥泉光「石の来歴」。息子の死、家庭の崩壊を経て、石の世界へと戻ってゆく主人公。


野坂昭如『東京小説』
東京小説 (講談社文芸文庫)

野坂の魅力は、超絶的な状況を冗舌かつ変態的な文体で、読み手の意志などおかまいなしに一方的に進める強引な力にあると思う。だから、野坂=アニメ「火垂るの墓」という認識は間違い。