わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

分断

けっこう毛づやがよい。

 六時三十分起床。
 アポがない日は仕事に集中できる反面、息が詰まりそうになる。とはいえノッていると机から離れられない。思考が分断されることがつらい。そんな状況になることが、まとまりかけた思考を放棄するようでいやなのだ。自分の脳みそ、考え、アイデア、そんなものへの執着が強すぎる証拠だろう。執着とはみっともなくてカッコ悪いものだ、と近ごろは考えている。こだわることで行動が狭まる。視野が狭くなる。仕事に集中しているときは、まさしくそんな状態ではないか。しかし、散漫な意識で仕事に取り組むのも、執着と同じくらいカッコ悪い。どこにバランスを置くべきか。息抜きはやはり必要なのだろう、と近ごろは痛感している。
 だから、というわけでもないが、執着が強まる前の息抜きの前払いとはおかしな話だが、外出の予定のない日は、よほど締切がせっぱ詰まっていない限り、朝のうちに散歩に出ることにしている。ただ、目的もなく家の近所を歩く。短いときで十五分、長くてもせいぜい三十分程度だが、朝から煮詰まって息が詰まるどころか窒息しそうになるのを予防するには案外効果的だ。今朝は善福寺川沿いの遊歩道を歩き、愛鳥うりゃうりゃ、ハチ、きゅー、ポンの死骸が埋まっている公園まで行った。トリたちに挨拶し、公園を根城にしている黒い地域猫にちょっかいを出し、軽く高校の陸上部時代にやっていた屈伸、伸脚にはじまり足の振り上げで終わる準備体操をこなしてから帰ってきた。半袖のTシャツでは肌寒い。枯れたヒマワリも近ごろは見かけなくなった。朝顔も蔓が少しずつ茶色がかかってしおれている。蝉の鳴き声は、今朝はまるで聞こえない。明日は夏と秋を分ける日である。昼と夜が二等分される日である。ああ、分れ、そして変わるのだと思った。
 午前中は某社のCI企画。午後からは福岡取材のテープ起こし。正確にはICレコーダー起こしだけれど。花子にあまえられ、何度も中座。しかし、思考が分断されることに怒りは感じない。花子に悪気はないのだから。
 夜はドラマ「電車男」。うーん、都合よ過ぎだなあ。ま、コメディだからいいか。ラブストーリーとしてではなく、ネットの住人との交流を重視した最終回、というカタチは正解だと思う。

 古井由吉「旅の心」。旅先での垢のにおい。納豆のにおい。この作品、やたらと「におい」が出てくる。古井は耳を澄ます、というテーマでエッセイ『ひととせの』を書いた。『野川』では、風景がいつの間にか過去の記憶や死者の霊魂と結びついてゆく。なるほど、聴覚や視覚は作品として展開しやすい。だが、嗅覚はどうか。ともすると視覚聴覚以上に記憶に深く刻まれることもあるが、呼び起こしイメージとするのが困難なものでもある。