わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

満腹の功名/海の幸

青木繁「海の幸」

 仕事が溜まっている。今日は働こう、明日は休もう。朝五時、花子にゴハンを与えているときはそう考えていた。しかし実際は、というと反対。七時には起きて午前中からしっかり、そして夕方ゆとりができたら散歩でも、という目論見ははかなく消えた。七時が八時になり、八時が九時になる。重い腰を持ち上げ、痛む背中をかばいながら起きる。胃まで重たい。夕べ焼き肉など食べたせいだろうか。肉食は身体を重たくする。歳のせいか。油ギトギトは卒業せよと言うことか。だが肉は好きだ。どうすればいい。答えはひとつ。休みの前日、心おきなく朝寝坊ができる日の前に、たらふく食え。それなら誰にも迷惑をかけない。だが今朝はダメだ。自分に迷惑がかかっている。昨日の自分が腹立たしい。だが過去を後悔してもしかたがない。そうこうしているうちに、ダラダラとではあるが身支度を済ませたら十時半になった。動いたら胃もすっきりした気がする。だがめいいっぱい働く気にはなれない。目覚めた時点で勤労精神が失せている。ならどうする。休めばいい。だがどういうわけか、働きたくはないが、アタマは使っておきたいと思った。一時間だけ、いや三十分だけでもいい。というわけで、少々仕事。ほんの小一時間だが、妙に集中できた。怪我の功名ならぬ、満腹の功名。
 午後から外出。友人Kと、カミサン、ぼくの三人で、西荻窪の「タイカントリー」 http://gourmet.livedoor.com/item/400/T15164/ で昼食。ぼくはカミサンはガイカップラーカオみたいなのとカオニャオというタイのもち米のセット。Kはグリーンカレー。ぼくはカオソイのタイ米セット。久しぶりに顔を合わせた。が、前回下北で会ったときもエスニックだったはずだ。カミサンは大のタイ料理好きで、どういうわけかタイ人やインド人やネパール人にモテる。Kもエスニックは好きなようで、おまけにブームになるかなり前からヨガをやっているだけあって東洋の文化には関心が高いらしい。ぼくはタイ料理よりはインド料理なのだが、まあエスニックは全般的に好きだ。学生時代は西洋の近代思想に関心があったが、近ごろは東洋の思想にも興味をもつようになった。という三人が集まるのだから、エスニック料理は必須なのかもしれない。
 これから友人の結婚式の二次会だというKと別れ、カミサンと八重洲へ。予定では午後から働く予定だったが、もうどうでもいいや。「ブリヂストン美術館http://www.bridgestone-museum.gr.jp/ で開催されている特別展示「青木繁――《海の幸》100年」を観る。プリミティブな躍動感、生命の根源の感じられる力強さに以前から感銘を受けていたが、はじめて現物を観ることができた。この画家、風景画などは特に強い印象は受けないが、海神(わだつみ)の肖像など、古代日本の神話をモチーフにした作品になると突然画風も画力もエネルギーも変わってくる。海と人間との精神的な関連性を、どこか本能的に理解していたようだ。青木繁の作品もよかったが、それ以上に常設作品に感動してしまった。ボナール「ヴェルノン付近の風景」。アングルは頓珍漢、色使いも軽くてどちらかというと好きになれないタイプなのに、なぜか魅かれてしまう。頓珍漢なのに、なぜかドラマチックに思えるのだ。これから何かがここではじまる、あるいは何かがここでようやく終わる、そんな印象。映画の一コマのような絵画。ルオー「郊外のキリスト」。なぜこんなに重く、苦しく、悲しいのだろう。この絵からは未来も救いも見えてこない。なのに、観るものは不思議な活力を与えられる。孤独でも、重く苦しい人生でも、大丈夫。そんな、理由不明の自信、奇妙な安心感が感じられる。黒田清輝「プレハの少女」。輝くのか、埋没するのか。不安定な思春期のワンシーンを描ききった名作だと思う。藤田嗣治「猫のいる静物」。静物画なのに、飛びかかろうとする猫、逃げる雀が描かれている。静かなる躍動感。静物までもが、命吹き込まれる。藤田の不思議な透明感は、対象物がなぜかゆらぎ、動き出すのだ。藤田嗣治「ドルドーニュの家」。メチャクチャな遠近法。今風に言えば、ヘタウマなイラスト。そんな作品なのに、凡百のイラストレーターなぞ問題にならぬほどの完成度。空間が、ほかの存在を一切寄せ付けない。完成された絵とは、こうあるべきなのだ。
 銀座、有楽町まで歩き、交通会館の地域物産館みたいなところで豆腐などを買い、帰宅。夕食はアジを食べた。
 
 昨日から大江健三郎『さようなら、私の本よ!』を読みはじめている。近年の大江の作品、実は非常に閉鎖的・排他的だったりするということに今さらながら気付いた。もっとも、すべての小説は閉鎖的で排他的である。他の要素が入り込むスキがあるということは、完成されていないということなのかもしれない。もっとも反対の場合もある。後藤明生の『挟み撃ち』は、蛇行的に暴走する主人公の行動が、閉鎖的でありながらもスキだらけだったと思う。武田泰淳『目まいのする散歩』も同様だ。