わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

切捨御免

 六時三十分起床。やんでいるとはいえ、消えきっていない秋雨の気配に、いつまた降るか気をもみながら身支度する。
 事務処理、某大学広報誌企画、某カラオケチェーン企画など。
 十九時より小石川にてL社のT氏、U氏と打ち合わせ。某外資系ペットフード会社、某健康食品会社の企画と二本立てだ。二十一時、終了。カミサンと荻窪駅で待ち合わせし、「TOKIMEKI彩風堂」という恥ずかしい名前の鉄板料理店で夕食を済ませてから帰る。秋雨はまた活発になりはじめている。濡れながら帰る人をたくさん見かけた。

 打ち合わせをしていると、突然相手の声が耳に入らなくなることがある。向こうは言葉を重ねつづけているのに、こちらの耳には入らない。それどころか、集中のために壁さえ作ろうとする。いただいた資料を熟読しはじめ、行間から重要な何か、企画やコピーの要となる部分を拾い出すことに夢中になっている。しかし、それは長くはつづかない。相手から耳を離した自分に気付き、慌てて説明を拾い直す。いくつかの言葉は聞き損じている。なぜこんな状態になるのだろうか。傾聴という言葉があるが、打ち合わせの際は疑問を感じようが反対意見をもとうが、とりあえず相手の言葉に耳を傾け、(その相手の主張がよほどムチャクチャでない限りは)一旦すべてを受け容れてから、自分のアイデア展開することにしている。だがいくら気を付けても、思索の世界にトリップしてしまう。なぜか。理由をあれこれ考えてみたが、どうやらそうなってしまうきっかけは、会話の流れ、というより先方の説明の流れにあるようだ。話はつづいていても、張りつめていた緊張のほうだけが先に途切れる。しかしそこに、緩和のための笑いがあるわけではない。単純に、だれる。マーケティングテーマや表現上の課題の難問さに最初からアタマを抱え込んでいる、そんな様子を、隠しているつもりでもふと露見する。その刹那、先方の伝えようとする意志が弱まる。こちらの、受け身になって、だが能動的に耳を傾け言葉と意図を集めようという意志も同時に弱まる。すると目の前には、資料に書かれた課題だけが残る。能動的受動となっていたぼくは、どうやら自然と、その課題に取り組まざるを得なくなるのだ。
 隙あらば、斬る。武士の台詞だ。油断が生命の断絶へとつながる。生きつづけたいなら、生きる意志をもちつづけなければならない。物騒な話だが、案外これはコミュニケーションの特質を殺戮の世界に置き換えているだけなのかもしれぬ、と最近思う。油断とともに話せば、その先には反論や嘲笑、無視軽視といった断絶が待っているのかもしれない。何の断絶か。これは会話の断絶ではない。信頼関係の断絶なのだ。斬捨御免とは、自分は相手とは信頼関係をもちたくない、いや信頼に値せぬ無価値な存在、あるいは自分の存在を脅かす邪魔な存在、そんな相手を斬ってしまうことではなかったか。ならば、自分が相手の話を聞きつづけられないのは、その話の中に現れた油断に自分のセコイ自我がつけ込み、相手を会話で、あるいはアイデアや論理で斬ろうとしているのではないか。そしてまた、自分もまた斬り捨てられる存在なのである。油断は何も生み出さない。ただただ斬られ、喪失するばかりである。

 大江『さようなら、私の本よ!』。どんどん物騒な感じがしてくるなあ。
 松岡正剛『フラジャイル』。本当のフラジリティは、身体の内側からやってくる。なるほど、たしかに自我だの自意識だのを知ろうとするよりも、身体の中、五臓六腑のすべて、骨のひとかけら、血の一滴、細胞のひとつひとつに至るまで、自分の身体をすっかり把握しようとすることのほうが、実は困難。自我や自意識は個体的な幻想であるとも言えるのだから。しかし身体は存在する。だが我々は、自らの身体の中を認識・知覚することができない。ここに人間存在の本質的なフラジリティ、存在のあいまいさがある。自分の確立とは、自分の身体を把握しきることなのかもしれない。