わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

ランチタイムの緊張感/大便を我慢する猫

 六時三十分起床。
 午前中は某筆記具メーカーのリーフレット。午後から外出。ちょうど昼時、近所の教材メーカーの社員たちが昼食をとるためにぞろぞろとビルから出てくる。近ごろは自分で時間を管理できるので、今日のように午後イチで打ち合わせがある日を除けば、ほぼ規則正しく、おなじ時間に食事をするようになったものの、思い返せばサラリーマン時代は、まともに十二時にメシを食えたことなどほとんどなかった。この風景こそ普通なのだろうが、常に周囲に追い立てられるようにして働いていたあの頃の自分と比べてみると、緊張感がないんじゃないか、などとつい批判的な目で観察してしまう。不幸なのはどちらだろう。おそらく昔のぼくのほうだ。ランチタイムに緊張感など必要ない。
 霞が関のD社で打ち合わせ。九十分ほど要した。十五時三十分、帰社/帰宅。午前中のリーフレットを仕上げてから、某ITベンダーのPR誌。夕方、キャヤノンのメンテナンス担当が出張修理。何か起こるといけないので花子をケージに入れるが、ずっとフニャンフニャンと要求ありげな声で鳴きつづけている。こんなところに閉じこめないで、と言いたいのだろうか。と思ったら、ケージの中に入れてある猫トイレでおしっこをはじめた。コピー機のメンテの最中に、サービスマンの目の前で、である。しっこを済ませてからも鳴きつづけるので、ケージから出し、アトリエに移動させたが効果なし。サービスマンが帰った後に開放してあげたら、そそくさとトイレに直行し、執拗に砂を掻いたと思ったら、大量に大便をしはじめた。どうやらウンコしたいけどお客さんの前ではイヤ、といっていたらしい。ならおしっこも我慢したらどうだい、花子ちゃん。
 某ハウスメーカーの企画も手を付けようかと思ったが、昨日やってしまったらしい軽い寝違えの不快感に勝てず、整骨院へ。治療してもらったが、まだすこし痛む。
 夜はビデオに録画しておいた「内村プロジェクト」を観る。三村の暴走っぷりに爆笑。
 
 武田泰淳「異形の者」を読みはじめる。ある哲学者との議論、というよりは主人公(おそらくは泰淳自身がモデル)を非難するカタブツ哲学者に対するオチョクリからはじまり、「極楽はあるか」という議論から、主人公の僧侶時代(泰淳は浄土宗の僧侶だった)の思い出の世界へと飛躍していく。とにかく変。例えば、ここ。哲学者の描写の悲惨なこと。しかし、その分主人公の何も考えていない台詞に、妙な説得力と重みが加わる。ある種のお気楽主義か。それとも、これもまたニヒリズムなのか。見方を変えると、実はヒューマニズムでガッチガチのようにも思える。
《「あんたには愛というものがわかっていないらしいな」と哲学者は言った。
「わかっています」
「あんたはあんたを愛する女を傷つけても平気じゃないのか。あんたの行動なり態度なりによって、愛人がどれほど泣き悲しむか、それを一度でも考えたことがありますか」
「もちろんあります」
「しからば愛とは何か」
「誤解であります。誤解の上に成立するものであります」
「フン、しかし」と哲学者は気味の悪い両棲動物でも見つめるように、少し顔面を私からしりぞけて言った。「……それじゃゲーテの愛も?」
ゲーテの愛もその通りだと思います。私はあまりゲーテを読んだことがありませんが」
 ゲーテを敬愛しているその学者は、私のその無意識に発した言葉でひどく傷つけられ、逆上したように見えた。過度の勉学と余分の情熱のため、哲学者の顔は青黒くゆがみ、どうしても、この不心得者を説得してしまわねば止まぬという焦燥で、眼鏡の下方の頬の肉がピクピクけいれんした。》
 ここまででも壮絶なる軽薄さに十分圧倒されるというのに、そのあとに駄目押し的に「憎しみ」についての論議がつづく。
《「愛がもしあんたのいうようなものだとしたら、憎しみはどうです?」
「憎しみも似たようなもんです」
「憎しみも誤解ですか。誤解の上に成立するんですか」
「ええ、つまり」私はめんどう臭くなった。しかしホンのチョッピリも、そんな表情は示さなかった。「人間というものは、絶対に互いに理解しあえないもんだと思うんです。理解しあえないからこそ、イヤ理解しあえないという前提の下に、愛も憎しみも成立するんです」
「ではあんたは人間の愛を信じないんですか」
「信じるとは一体どういう意味ですか」
「感ずることですよ。全身全霊で、それを明確に感ずることですよ」
「感覚や感情は私にもあることはあるんですよ。ただそれが実に、あいまいな、あやふやなものなんですよ。全くあてにならない、妙なもんなんですよ。だから愛を信ずるかといわれても困るんですよ」》
 世を悟りきったような発言をつづける主人公。だがそれが「適当」であったことを読者はこの直後に知らされる。それが妙に納得できてしまうから恐ろしい。
《それからどんな勧進帳の問答風な対話が続いたか記憶していない。たてつづけの熱烈な質問に、一々私は適当な返答をしていたようである。適当なとはむろん、正しいという意味ではない、その場で一応つじつまが合っていたという意味である。》
 まいった。
 で、この後ふたりは地獄と極楽について論じ合い(というか主人公が「私は地獄に行きたい」と主張する学者を適当にあしらい)、僧侶時代の思い出へと話は移行する。
《学者よ、許されよ。私は決して貴下の地獄往きを妨害しようとしたのではない。ただ私がかつて極楽の専門家であったために(この事実に気づくために一週間以上かかったのであるが)、つまり語るにおちたにすぎない。私が青春の一時期、アミダ仏の力にすがって極楽往生を遂げることを宣伝する、他力本願の一宗派の僧侶であったためなのだ。そのためうっかり(用心に用心を重ねていたのであるが)、万人を極楽へ送り込むという、よくない奥の手が出てしまったのである。》
 僧侶となるための加行の場で、中国から来た僧・密海に「極楽はどこにあるか」と訊ねる、かつて社会主義の政治青年だった主人公。極楽は今生にある、と主張する主人公を、「汝もまたやがて極楽へと赴くのである」と密会は諭す。そのやりとりから、およそ僧侶らしくない、だがそれゆえに世界の真実に仏教僧以上に近づいたような発言が主人公から飛び出す。いささか俗っぽくはあるが。
《私の身うちを、たまらない嫌悪の念と、情けない旋律とが走り抜けたようであった。相手は鶏卵の殻のように皺一つ、しみ一つなくスベスベ光る温顔に気の毒そうな親愛の念を浮かべ、老僧のごとく落ち着き払って私と向かいあっていた。
 極楽へ? この俺が極楽へ。そしてそうときまってしまったら、それ以外に、何もなくなってしまうではないか。青春の悲しみも、歓喜も、毛髪もそそけ立つ苦悩も、骨も肉もとろけ流れる快楽も。そうだ。私がわけのわからぬ外界の動きと自分自身のアメーバ的な蠕動のおかげで、こうやって、白衣黒衣の非人間的人間になりさがっている、まるで矛盾の標本のような、この存在の不安定さも、その骨にこたえるはずかしさも、そのシリアスな感覚も! それはあまりにも都合の良すぎる話であり、また何とニヒリスティックな大氷河の澄明な亀裂にも似て明確すぎる、あまりにも物理的、あまりにも天然自然的なことではないか。俺は人間であり、密海さん、おまえさんもおなじにんげんであるいじょう、もうすこし、このよの「生」について、つまずいたり、ころがったり、密着したり巻き込まれたりするのが当然ではないのか。》