わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

抜気

 気が抜ける、その引き金になるものとは一体何なのか。近ごろは、よく気が抜けるようになった。以前は大きな仕事が終わるとき、長期休暇に入るとき、必ず気が抜け、ふぬけとなり、不注意となり、風邪をひいて昏々と寝込んだ。近ごろは、週末だ、今日はまあ仕事をしなくてもよいだろう、そんな程度の節目、いや節目などとは呼べぬほどささやかなタイミングで、気が抜ける。だが風邪はひかない。ただ寝るだけだ。朝寝する。今朝は九時に目が覚めた。仕度し、掃除し、あれこれ気の抜けた状態で自分の分担の家事をこなし、昼食をとると、また寝る。満腹感にしばらく浸りながら、不自由なほどに重たくなった腹をこなれさせようと、倒れてみる。ただ倒れるだけならよいが、つい枕を用意し、毛布などかぶる。腹に手を乗せ、こなれろ、こなれろ、と想いながら二度、三度、四度とゆっくり深呼吸してみる。気づけば夢の中にいる。今日はボウリングやらビリヤードやらがある遊技場らしき施設のなかに、七年前に辞めた会社の、さほど仲もよくなかった同僚や先輩たちといる。何をしてたかは覚えていない。覚えていないほど、あやふやなまどろみのなかですこしずつ目を覚まし、やがて耳に花子のフニャンという鳴き声が聞こえはじめ、毛布にくるまっていた自分の身体や、自分が寝ていた部屋の存在がすこしずつ確かになり、目が覚める。だが身体はなかなか動かない。こうして、無駄に休日の貴重な時間をつぶしていく。だが、疲れだけは癒える。それでよし、ということにしておく。すると気を抜くことも必然ではないか、とも思えてくる。気とは流れるものだと聞く。なら、自分のなかに留めておいてはいけない。
 夕食は博多風水炊き。鶏ガラのダシで。
 
 松岡正剛『フラジャイル』。ネオテニーとフラジリティの関係について。ちょっと引用。
ネオテニーという言葉は、胎児や幼児に特徴的な形質が成人になってもまだ残っているというときにつかわれる。幼い形のまま成熟してしまうこと、それがごく一般的なネオテニーの意味である。しかも、それが種を超えて継承されることがある。
 私が初めてネオテニーという言葉に接したときは、こんな質問からはじまった。「君ね、チンパンジーの子と人間の子をよくくらべてごらん。あまり似ていないね。じゃあ人間の大人は何に似ているかな。そうだ、チンパンジーの赤ちゃんに似ているんだ。どう? びっくりしただろう。これがネオテニーだ。」
(中略)人間が特別にネオテニー的動物なのである。にんげんはネオテニーによって、進化上の特権的な位置を占めたとさえいえるのだ。》
 たしかに幼児性はフラジリティ(弱さ)。このネオテニーが、人間の進化をうながしたのではないか、という考察がムニャムニャとつづく。
ネオテニーは発育過程が「遅滞」(retardation)することによって、胎児や幼児の特徴がそのまま保持される風変わりな現象をいう。この「遅滞」という作用が問題の核心をとくカギである。あえて遅滞することが、かえって生物の進化的成熟をもたらすという関係になっているからだ。》
 このあとDNAだのRNAだのが、ウィルスによって変化・進化を促されるという論が延々と紹介される。そこから導き出された結論は、生命の秘密を明かす可能性を秘めているだけでなく、この世界の仕組み、複雑性を読み解く「真理」にまで到達しそうな勢いである。
《結局、生命は、そして情報は、単純なものから複雑なものに向かってすすんだのではなく、最初に「複雑さ」を出発点としていたのである。いいかえれば、こういうことである。情報自己は生命の歴史の最初から「複雑なたくさんの自己」だったのだ。》
 ふう。
 つづいて「ハイパージェンダー」、フラジリティとしてのホモセクシャルについて。エドマンド・ホワイトというひとが『欲望の状況』という作品のなかで提案したゲイ・ライフ(の条件?)が引用されていて、これがまたおもしろかった。
《(1)そもそもゲイにはいろいろの組み合わせがあるものだ。/(2)ゲイは趣味の担い手という誇りを持っている。/(3)ゲイはつねに最先端の思想を送り出すが、自分では身に付けない。/(4)ゲイのモットーはよく働きよく遊ぶことにある。》
 武田泰淳「海肌の匂い」。漁村のリアリズム小説かな、なんて思いながら読んでいたら、どうやら共産主義的な側面もあるようだ……。