わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

オリュウノオバ物語

 六時三十分起床。部屋の空気はひんやりと冷たいが、高原の朝のようなすがすがしさがあるわけではない。むしろ、わけもわからぬ、そして長いだけでとりとめのない、曖昧すぎて目が覚めればたちまち細部を忘れてしまうような夢のおかげでぼけたアタマには、その冷たさすら、凛とではなく、ダラリと感じてしまうから不思議だ。
 午前中は赤羽橋のT社にて打ち合わせ。受付に立ったらいきなり小型犬に脛のあたりを抱きつかれてしまった。社長のNさんが飼っている犬だそうだ。
 帰社/帰宅後はITベンダーのPR誌、11月号と1月号を同時進行で。
 十九時、三軒茶屋の「シアタートラム」へ。中上の名作(問題作?)である『千年の愉楽』を舞台化した「オリュウノオバ物語」を観る。オバを演じるのは岸田今日子。三人称描写であるにも関わらずオリュウノオバの「語り部」としての意識が混在し、主語は不明、二重三重と重なるイメージの波にのまれたり逆らったりしながら展開される、オバの記憶と現在、肉体と霊体、現実と超現実を複雑に行き来するような地の文章が、舞台上でオバの口から語られる。このオバは産婆としてのオリュウではなく、路地の精霊としてのオバであるべきで、それをどう演じ分けるのかに興味津々だったのだが、岸田今日子め、スゲエや。見事に演じ分けている。しかも、なーんも奇をてらわず、ごくごく自然に。物語は二部構成。中本の呪われた血を受け継ぐ、若死を宿命としたふたりの男、霊感をもった文彦と、南米にパラダイスを築こうとするオリエントの康の物語。エピソードは原作のあらゆる場面からコラージュされて構成されているようだ。凝った舞台装置と役者の体当たり的な演技の相乗効果、そして随所に苦労が伺えるシナリオの優れた構成力の相乗効果で、中上の作品世界が(原作とは微妙にズレているのだが、まあそれは舞台のオリジナリティということで)見事に視覚化されている。ラストに演出家の大橋也寸、主演の岸田今日子、そして中上夫人の紀和鏡の三人によるトークショーがオマケについてきた。会場には脚本家の嶽本あゆ美も来ていた。質疑応答があったので、オリュウノオバを語り部にした物語のなかで、ほかにどんな男を取り上げてみたいか訊いてみた。紀和は『奇蹟』のタイチをはじめ、みなが魅力的だと語り、大橋は脚本の段階でふたりにしぼったものの、それは苦労の連続で、最終的には『千年の愉楽』に登場するすべての中本の血をひく男を部分的に取り込んだ、と語っていた。なるほど。
 遅くなったので夕食は荻窪の「ロイヤルホスト」で。和牛のハンバーグを食べたが、うわあ、ひどい。ブラックリストものだ。なんで和牛なのに肉の味がしないんだよ。
 
 読書はあまりできず。泰淳「海肌の匂い」をすこし。あとは、今泉浩晃がWebで公開していたエッセイをすこしだけ。司馬遼太郎の「わが空海」での仏教に関する文章がすこし引用されていた。これがおもしろかったので、また貸しならぬまた引用。
顕教である仏教は、周知のように釈迦がはじめた。釈迦という、歴史的に実在した人物が教祖になっている。が、密教は釈迦が教祖ではなく、宇宙の原理そのものである大日如来が教祖になっている。大日如来は人間ではない。顕教は実在者である教祖によって説かれたるものである。密教は、説かれはしない。なぜならば宇宙の絶対原理(大日如来)というものは、人間の言語をもたないからである。人間の言葉をもたないが、しかし行者にしてその絶対原理の秘密の信号を受信しうる感応力をもつならば、風も叫び、光も語り、波もささやくであろう。さらに宇宙は、顕教のように人間の五官で知りうる世界だけでなく、たとえば電波、音波、宇宙線といった内奥の秘密世界があり、さらに顕教的な分子的世界だけでなく、原子的世界もありうる。上代インドのバラモン的哲人たちは、原理に内面世界があることを感得し、それを思想化し、さらにその世界に直入する方法としての呪法あるいは精神の感作、その方法を身につけることによって、この思想を宗教化した。人間もまた宇宙の絶対原理のなかで生かされている以上、その原理的表現としての存在であるわけだが、ただ人間は言葉に頼りすぎるがために、人間を支配している絶対原理の呼吸に自分の呼吸を合わせることができず、大日如来の悟りのなかに入ることができない。もし人間が絶対原理の呼吸や秘密言語をことごとく悟ってそれに一体化することができれば、生きながらにして絶対原理そのものになることができ、たとえば雨を降らせ、嵐を吹かせることもできるであろう。(これが本来の加持祈祷であるべきなのだが、のち密教が技術化し、形骸化するとともに、そういう呪術的な教義として受け取られるようになった。》
 密教ウンヌンというよりも、言語を通じた世界認識の仕方の違いがおもしろい。