七時四十五分起床。土日はゴミ棄てがないのですこしだけ朝が楽だ。今日もフライングしてきた冬将軍はなりを潜めているようで、外は温かい。空も澄んでいる。観葉植物をみなベランダに出し、たっぷりと水を与えてやった。
家から出ずに仕事。某Web サイト企画。規模の大きいサイトなので、どうしても企画書のページ数が増える。ときどきベランダから空を見てみる。どんどん雲が厚くなってゆくが、風が強いわけではないようだ。十七時ごろ、ようやく目処がつく。カミサンと西友へ買い出しに出る。もちろんとっくに陽は沈んでいる。だが、まだ冷えた闇には覆われていない。
夕食はビーフシチュー。テレビで「爆笑問題のバク天」「めちゃめちゃイケてる!」などを観て馬鹿笑いする。
武田泰淳「わが子キリスト」読了。手足に釘を打たれ、脇腹を槍で刺されて処刑されたイエス。弟子たちは迫害から逃れるために、誰ひとり姿を現さない。イエスは裏切られた。イエスを十字架から引き下ろし、洞窟の中に運び込む実の親である老兵士。そこに駆けつけた母マリア。老兵士は泣き狂うマリアからイエスの死体を引きはがし、土の中に埋めてしまう。それはマリアが疎ましかったからではない。老兵士がイエスの復活を本気で願いはじめていたからだ。イエスの死を契機に、すこしずつ老兵士の心に愛が芽生えはじめる。
その後老兵士は商売人ユダを探し当てるが、彼は、自分が(銀貨四十枚で)イエスを裏切り売り渡したことにすれば、ほかの弟子たちは主を裏切ったことにならなくなる、主が復活するためにはそうする必要がある、と主張し、あらかじめ用意していた銀貨四十枚を身に付けた状態で首を吊って自殺を試みる。だがうまく死ねない。ユダは老兵士に自分を絞め殺せと依頼する。ためらいながらも、実行する老兵士。そしてユダの貴重な死を伝えるために、どこかに身を潜めたイエスの弟子たちを探しはじめる。このあたりから、彼は無意識のうちに自分の使命を自覚しはじめるのだ。長いけど引用。
《マリアの小屋に近づきかかったとき(中略)突然、おれの片足が動かなくなった。/土の下に埋もれている木材の釘が、おれの左の足の裏から足の甲へ突き刺さり、それで片足が動かなくなったのだ。(中略)/釘をひきぬき傷痕をしらべるため、おれははだしになった。おれはすでに、やっかいな甲冑はぬぎすて、ユダヤの貧民みたいな、これ以上ぬぎようのないかっこうをしていた。お前をはりつけにした同種類の釘が、いつのまにかおれの片足を刺しつらぬき、お前の死体にあったのと同じ傷口がおれの片足にひらいていた。ただし、お前の傷口は釘三本のほかに、槍二本でつくられたものだ。/お前に対する、こらえ切れぬほどの深い愛情(いや簡単な親しさだったが)が湧き上がり噴き上ってきて、おれは釘を右の足の甲にあてがい、石をとりあげてそれを力いっぱい打った。お前にだけあの苦痛を味わわせておきたくないとか、お前に耐えられることがおれに耐えられるはずはあるまいとか、そんな大それた理くつや野心などさらさらありはしなかったのだ。お前の真似をすることなぞ、このおれにできるはずがないではないか。右足を刺しとおした釘をひきぬき、さらにそれをおれの右の手のひらにあてがって石で打ち、またさらにそれをひきぬいて、左の手のひらに同じ釘の傷痕をつくるまでのあいだ、おれが誰の命令によってそんな馬鹿馬鹿しい「実行」をやっているのか。誰にもわかるはずはあるまい。最高顧問官どのか、裏切者ユダか、母マリアか、それともお前の意志がそうさせたのか、そんなことは判明したところで何の意味もありはしなかった。/四つの傷の痛みにはげまされてではなくて、ますますおれが普通の人間でなくなっていくという恍惚感だけで、おれはだらだらの斜面をのぼり、マリアの小屋にたどりついた。》
この、自ら体を傷つけるという行為、すなわち死に近づくことで、俗から聖へと老兵士は無意識のうちに変貌しようとするのだ。老兵士の目の前に、マリアとイエスの弟子が姿を現す。聖痕ができた老兵士、イエスにそっくりの風貌をもつ実の父親は、彼らの目にはイエス本人にしか見えない。そうだ、イエスは実の父親、肉の親を通じて復活を遂げるのである。老兵士は本当のイエスにはなり得ないかもしれない。彼の口から発せられる言葉は、イエスの言葉にはなり得ない。だが、それでもいいのだ。イエスに必要だったのは、人々に信じられながら復活を遂げること、それによって神の愛を証明すること、この一点だけだったのだから。復活した人物が、本物であるか偽物であるかも関係ない。イエスという男は、キリストになれる。それだけは否定しようのない事実として、人々に記憶されつづけるはずだ。最後の一文も引用。
《イエスよ。かくしてお前は復活した。そして神の子イエス・キリストとなられた。誰がそれを疑うことができようか。》
新約聖書を、「史実はどうだったのか」をリアルに考察しながら、イエスとその周辺の人物の相関関係を読み解くように書かれた本作は、聖書以上に「聖」の本質に迫っている。それは、「聖」とは人間が生来的にもつ「弱さ」に端を発していること、そして「聖」に近づくためには、死=悲劇、そして「俗」が必要ということだ。最低の状況から一線を超えること。それこそが「聖」なのである。そしてそのためには「諸行無常」が必要不可欠となる。父がいるから子が産まれ、子が死んだから父が子の志を継ぎ復活した。あらゆる事象は、つながりあいながら変化しつづけるのだ。……いやあ、泰淳先生やっぱりスゲエ。
松岡正剛『フラジャイル』。不具者について。かなり「わが子キリスト」に通じる考察が展開されているのだけれど、長くなるから要約と引用は明日。