わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

仕事フォ〜

 七時起床。平日とおなじ時間に起床。空は晴れているが、薄く、しかしやや重たげに広がる雲が、いちだんと冬らしく見えてくる。空気は冷たい。
 平日とおなじペースで仕事するも、朝から頭痛に悩まされてしまう。ここ数日根をつめているのと、あきらかにキャパオーバーの受け方をしているからだろうか。しらずしらずのうちに、手に、腕に、肩に、背中に、力がこもる。呼吸がだんだん浅くなる。これではいけない、とMacに向かう手を安め、背伸びやらストレッチやら深呼吸やらをしてみるのだが、忙しいときはそれが二時間に一度はしたいところが、四時間に一度となり、五時間に一度となる。集中が時間を忘れさせるのではない。集中が思考の幅を狭めているだけだ。日常的な行動に、まるで気持ちが向かわなくなる。そんな仕事の仕方が頭痛を生み出す。直接の原因はおそらく肩こりと眼精疲労だ。整骨院でほぐしてもらう。
 午後からも仕事。十九時、晩飯の自家製お好み焼きを食べながら「爆笑問題バク天」と「めちゃめちゃイケてる」を観て両方に出ていたレイザーラモンHGに爆笑してから、また仕事。フォ〜。
 
 古井由吉『聖なるものを訪ねて』読了。後半はヨーロッパの宗教画、主にドイツの美術館に保管されているキリスト教の聖画を材に、私小説的な語りと美術評論的な語りが混在する不思議なスタイルで短編が展開されていく。絵画をたのしむことは、その作品が一般的にどんな解釈をされていようが、個人の自由である。想像力を働かせ、画家がなぜそんな描き方をしたのかを考えてみることは、描くとこと同等に創造的な行為ではないか。……と評するのはあまりに当然か。異様なのは、自身がまるで信仰していない聖画に、まるで必死に神に、救世主に近づこうかとしているような鋭さで切り込んでいく態度だ。切り込めど、そこには救いを求める気持ちも宗教自体を否定する気持ちもない。愛を説こうという大それた目的もない。ただ、神と人の関係について、冷静に観察している。古代、本当にあったかはどうかわからぬ奇蹟について、冷静に考察している。そして、そこに人間のあやうさと歴史のあやうさを、筆者は見いだすのだ。狂気と言ってもいいかもしれない。ただし一般的に思われている狂気とは、どこかが違う。絵の中に隠れた聖なる狂気は、見るものに、現代に潜んだ「聖なる」とは決して言えない平常な心、そこに潜んだあやうさを浮かびがらせるのだ。この作品は、単なる美術鑑賞記ではない。
 最終章の「豚のつぶやき」。主人公は新約聖書にある、悪霊憑きの男からイエスが霊を祓い癒される場面を描いた聖画を紹介する。絵の右側には、悪霊が乗り移った豚が、崖から身を投げて死んでゆく姿が描かれている。主人公の意識は、悪霊を祓ったイエスでもなく、祓われた男でもなく、この豚にばかり向かってゆく。旧約聖書の時代では、そしてイスラムの世界では「穢れた動物」である。引用。
《それにしても、思いはまたしても豚のほうへ行く。悪霊ではないけれど私の感情は、癒される男のみから、最後には豚たちのみのほうへ、移入される。草を食んでいただけで、罪もなかった者たちを、などと同情するつもりはない。豚であることが罪なのかどうか、この際、知らない。いきなり一斉に物に取り憑かれ、雪崩れを打って、まっしぐらに破滅へ飛び込むことの恐ろしさを思うのだ。それは私の身にも、いくら戒めていても、起こるときには起こるのではないか。さらに疑えば、いくら無事平穏に、分別して暮らしているつもりでも、その生活がそのまま、大いなる目から眺めれば、すでに狂奔にひとしいのではないか。そう考えると、我が身が豚の群れの一頭のように感じられる。そして、自分が豚であるということは、神の存在するしるしか、それとも存在しないしるしか、と奇っ怪な設問が浮かび上がる。
 聖ヴェロニカからはじまった連載が豚のつぶやきに終ったのは、分相応のところである。》
 豚フォ〜。