わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

睡眠パケット

 パケットという言葉がある。ケータイのメールやWeb閲覧などの通信量を表わす単位だが、これはひとまとめにした荷物、のようなニュアンスで、ケータイがデータをひとつの塊にして送受信する技術を採用しているからこれが課金の単位になるわけだ。ところで、ニンゲンの眠りもパケットである。1パケットが何時間になるかはひとそれぞれだろうが、大抵の場合は六時間か七時間くらいだろうか。ところがぼくは、そうではない。二時間が1パケットだ。昨夜は風邪気味だったので0時前に床についた。そして二時間。花子に起こされる。フニャンフニャンと、いつものように情けないが何やら特別な主張が込められていそうな声で延々と鳴かれる。遊んでくれ、とせがむときもある。水を飲みたい、だが汲みっぱなしの器から飲むのがいやだ、と水道まで連れて行かされることもある。やがて落ち着く。また床につく。そして1パケット。四時になるかならぬかという頃。また鳴かれる。今度はおそらく空腹が原因だ。だが朝食にはあまりに早すぎる時間だ。しばらく我慢させようとするが、するとこんどは自分が眠れなくなる。根負けする。しかたなしに、ゴハンを与える。大人しくなるので、また蒲団に潜る。そして1パケット。今度は六時前後。また騒ぐ。自分は目が覚めたのにニンゲンが寝ているのは気に入らぬらしい。まいった。適当にあやしているうちに、起床時間となってしまう。毎日がこんな調子だから、知人などに「一日何時間寝ているか」と訊ねられても困ってしまう。六時間ということになるが、寝ていない時間もかなりある。3パケット睡眠、と答えて通じるだろうか。
 
 六時起床。今日は終日自宅兼事務所にこもって作業。
 喉に痛みを感じたので、コンビニまで行った。テレビの予報で気温はかなり低いと聞いていた。ヒヤリとした冷気が自分を包み込むのをイメージしながらマンションを出る。そこで待っていたのは、自分を包み込むほどの冷気ではなく、ピュウと吹き抜ける冬の風だった。まず音が聞こえた。いや、聞こえたというより気づいた。つぎに皮膚で感じた。そして寒さが来た。冷気は包むのではなくて、ぼくの肉体を掠めて通り過ぎてゆくのだ。
 あれこれやっていたら、あっという間に夜になった。
 
 遠藤周作『海と毒薬』。舞台は戦中、九州のF市にある大学病院である。肺をわずらい、放っておけばどうせ半年後には死ぬ、手術をしても助かる見込みは少ない、退院させれば空襲にあって焼け死ぬだろう……と医者に命を値踏みされ、助教授の名誉欲から成功率の低い「手術」と称した人体実験に使われることになってしまった「おばはん」と、教授の親類であるがために手厚く看護され、「おやじ」と呼ばれる医師の出世絡みの思惑から半年くりあげて手術することが決まった美しい若妻。その対比が痛ましいほどリアルに突き刺さってくる。主人公である医師見習いの勝呂はおばはんが気になって仕方がないが、彼女の命をどう守るべきなのかがわからない。一方で、勝呂は先輩医師らの威厳ある姿に憧れの気持ちを抱いたりもする。生と死、貧富、そんな二律背反がひしめく病院の中で、勝呂の気持ちだけがどちらともつかづに揺れているように思えてくる。同僚の戸田との会話、引用。
《「患者を殺すなんて厳粛なことやないよ。医者の世界は昔からそんなものや。それで進歩したんやろ。それに今は街でもごろごろ空襲で死んでいくから誰ももう人が死ぬぐらい驚かんのや。おばはんなぞ、空襲でなくなるより、病院で殺された方が意味があるやないか」/「どんな意味があるとや」勝呂はうつろな声でつぶやいた。/「当然の話や。空襲で死んでも、おばはんはせいぜい那珂川に骨を投げ込まれるだけやろ。だがオペで殺されるなら、ほんまに医学の生柱や。おばはんもやがては沢山の両肺空洞患者を救う路を開くと思えばもって瞑すべしやないか」/「本当にお前は強いなあ」勝呂はふかい溜め息をついた。「そんなことは俺にもわかっとる。わかっとっても俺あ、そうや、なれん」/「強くなければ、どう生きられる」/ 突然、戸田は引攣ったように嗤いはじめた。「阿呆臭さ。こんな時代にほかの生き方があるかい」/「そうやろか」/(中略) 海は今日、ひどく黒ずんでいた。黄いろい埃がまたF市の街からまいのぼり、古綿色の雲や太陽をうす汚く汚している。戦争が勝とうが負けようが勝呂にはもう、どうでも良いような気がした。それを思うには躰も心もひどくけだるかったのである。