わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

ジリ長

 
 七時起床。近ごろは睡眠時間がジリ貧ならぬジリ長の傾向があって困る。おそらくは花子に起こされた分を身体が取り戻そうとしているのだろうか、自然ななりゆきに違いはないはずだが、六時間以上眠ると根が貧乏性で、もったいないと感じてしまうから困ったものだ。もっとも、今年の三月ごろのように三時間睡眠で一ヶ月を過ごすというのも、別の意味で困ったもんだ。睡眠を満足にとれないということは、豊かな生活を送っていないということではないか。自分が追い求めた結果三時間ならよい。逆は質が悪い。何かに追われている。睡眠時間とともに、色々なものを削り取られているのではないか。
 厚い雲がまばらに、だが幾重にも重なっている。底側、つまり地表に向かっている方は、暗い鉛色のグラデーションだ。それが、雲の側面に近づくと突然グラデーションが終る。朝日に照らされて黄色く輝いている。その輝きが、鉛色を飲み込んでいる。そのすぐ横にも、やはり鉛色の底面があり、黄色い側面がある。鉛と鉛のあいだ、黄色と黄色のあいだに、霞んだ青がわずかに広がっている。横に、ではなく、上に向かって広がっている。雲の切れ目から覗く空は高い、と思った。
  
 午前中は仕事。午後も仕事。某菓子メーカーの件、てこずるかと思っていたが、さほど苦しまずにいい案を出せた。あとはまとめるだけだ。その作業は明日に残すことにした。
 
 夕方から買い物。西友でぷっちゃんのゴハン、自分たちのゴハン。
 夕食は豆乳鍋。豆乳にコンソメスープの素、醤油でスープをつくり、豆腐、春菊、Pラーで薄くした大根と人参、しめじ、そして豚肉を煮て喰う。豆乳は食べはじめと食べ終りで味がずいぶん変わってしまう。おそらくどんどん豆腐の成分が具に付着して、水気ばかりが鍋に残ってしまうのだろう。
 
 遠藤周作『海と毒薬』。主人公の勝呂とともに人体実験に立ち合った戸田の手記。幼少時から現在までの、自分が犯した罪の告白がつづく。だが、彼はそれを見にくいとは思えど苦しかったとは感じていない。ちょっと引用。
《もう、これ以上、書くのはよそう。断っておくが、ぼくはこれらの経験を決していまだって呵責を感じて書いているのではないのだ。あの作文の時間も(引用者注:教師のウケを狙って嘘を書いたこと)、蝶を盗んだことも、その罰を山口になすりつけたことも、従姉と姦通したことも、そしてミツとの出来ごとも(引用者注:女中の妊娠と堕胎のこと)醜悪だとは思っている。だが醜悪だと思うことと苦しむこととは別の問題だ。/それならば、なぜこんな手記を今日、ぼくは書いたのだろう。不気味だからだ。他人の目や社会の罰だけにしか怖れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分が不気味になってきたからだ。》
この一節には、どんな人間も程度の差はあれ、共感できる部分があるのではないか。そして戸田は、遠く離れたF市の空襲を勝呂とともに病院の屋上から眺めているときに、人々がうめくような不思議な声(あるいは音)を聞き、こんな思いにとらわれる。
《その瞬間、ぼくはあの六甲小学校のこと、西陽の当たっていた標本室、運動場にたたされていた山口の疲れた姿、湖のほとりをあるいた朝、従姉をだいたむし暑い夜、三等者に顔を押しあてたミツの顔、それらすべてが心の中に一時に甦ってくるのを感じた。なぜかわからない。ぼくはその時、いつかは自分が罰せられるだろう。いつかは自分がそれら半生の報いを受けねばならぬだろうと、はっきり感じたのだった。今日、人々が炎に追われ、煙に巻き込まれながら息絶えていっている時、このぼくだけがかすり傷一つうけず名にも犯さなかったように生き続けることはあるまいと思ったのだ。だが、この考えも別に苦痛感を伴ったものではなかった。ただ一に一を加えれば二となるように、二と二とを足したものが四であるように、こうした事実は当然のものとしてアタマに浮かんできたのだ。》

 キリスト教的な倫理観だなあ。