七時起床。窓の結露を拭き取るのが日課になった。部屋の中にはこれほど水分が溢れていたのかと感心してしまう。
朝イチで某菓子メーカー会社案内のプレゼン用コピー。十一時、小石川のK社へ。P氏、I氏らと某信販会社社内報企画の打ち合わせ。
播磨坂の桜並木を歩く。北風、とおおげさに言いたくなるような風は吹いていないが、葉の落ちきった桜の枝は、冬の青空に寒々しく映える。道端にほとんど葉が舞っていないのは、すでに落ちきったからか、それとも近所の方がまめに掃除をしているからか。これから数ヶ月、花咲く頃まで裸ん坊か、などと思いながら枝の揺れや広がりを眺めていると、一本だけ、すでに咲いている木を見つけた。見間違えではない。たしかに桜が、八重らしいが花びらの色はソメイヨシノのように淡く小振りだ。そんな、華奢な桜が、一本だけ花開いている。数字で言えば三分咲きといったところだ。立ち止まり、じっくり見てみる。見れば見るほど桜である。寒桜というのがあるが、あれは二月ごろ咲くのではなかったか。クリスマス・チェリーとは聞いたことがない。幹を見てみた。チャコールグレーっぽい木肌に、地面に水平に筋のようなものが何本も入っているのは、若い桜の木の幹に間違いない。不思議に思っていたら、プレートが針金でくくりつけてあるのに気づいた。子福桜というらしい。帰宅後調べたら、秋に咲く桜の代表のようだ。秋桜と書いてコスモスと読むが、あれは桜の花ではない。菊の一種だ。一方で、秋に咲く桜の仲間もあるわけである。今日見た子福桜は、本来は十月末か十一月に咲くものらしいから、遅咲きの桜というわけだ。
午後からは事務処理、某公共団体新聞広告。十八時を過ぎると花子が腹減ったゴハンくれと大騒ぎしはじめるので困る。
遠藤周作『海と毒薬』読了。巻末の解説にはキリスト教的二元論がなんちゃらかんちゃらと書いてあるが、そんな読み方はあまりに杓子定規的過ぎはしまいか。良心を捨てきれない勝呂も、良心が何なのかがわからない戸田も、良心はもとより人間的な感情を捨てるようにして生きてきた上田看護婦も、みなこの二元論には当てはまらないわけだ。そもそも、国のためという大義名分のもとに堂々と人殺しが行われる戦争というシステム、そこで傷ついた者や病に伏した者、すなわち死が近づきつつある人間から、その運命を遠ざけようと試みる医療というシステム、これらが混在する時代そのものが、二元論では語り尽くせぬ混沌の中にあるのだ。むしろ、安易なプロットを嫌うほどの時代であったからこそ、彼ら登場人物たちは、人体実験という非人道的な行為に対し、明確な意思表示なり反対行動を取ることができなくなっているのではないか。神の名をそこにもちだせば、すべてはシンプルに解決される。だが登場人物たちは、みなそこに救いを求めない。ただ、感じ、苦しみつづけるだけだ。その先に何があるのかも彼らにはわからない。だが、二律背反する要素の中間で、揺れ続けるのが人間であり、その揺れ方が個々の生き方であることは、勝呂も戸田も上田も、みな漠然とながらわかっているはずだ。わかるから、外部に救いは求めない。作者が描きたかったのは生命の尊さでも神の存在でも良心でもなく、混沌に生きる人間の、自己解決への出発点だったではないだろうか。