夜中に目が覚めた。二時半だ。昨夜はたしか零時前に寝ている。そのぶん早く目覚めたか。花子に起こされない限り、の話ではあるが、だいたい三時間おきに目が覚めるようになってしまった。花子がそのような起こし方をするからであるが、近ごろはぼくのほうが花子がフニャフニャと騒ぎはじめる一瞬前に目覚めることが多くなった。
二度寝したら、おかしな夢を見た。高校の陸上部時代の夢だ。ぼくは大会の会場にいる。いっしょにいる連中は明らかに同級生でもともに走った先輩後輩でもなく、おそらくは現在、母校で陸上をやっている現役の高校生だ。そのなかにぼくがまじっているのだ、実年齢のまま。三十六歳のオッサンが、高校生の大会にエントリーしている。百メートル、走り幅跳び、三段跳びの三種目だ。現役のときにやっていた種目とおなじである。だが三十六歳のオッサンには全力疾走する自信もシザースジャンプを決める自信もホップで距離を稼いでからバランスをくずさずステップ、ジャンプとつなげる自信もまるでない。だが試合には出たくてたまらない。競技前の点呼をコールと呼ぶのだが、そのコールはまだか、まだかと待ちわびている。ところが、競技には必須のゼッケンがない。後輩どもに聞いてみても、誰もオッサンの相手なんかしてくれない。ガサゴソと探していたら、高校生たちとはまるで違うデザインの、紙でできたゼッケンが見つかった。たぶんこれを付けていれば問題ないはずだ。だが、とふと思う。コールのときは、ゼッケン番号で呼ばれる。自分は自分の正しいゼッケン番号を知らないのだ。だから、安全ピンでくくりつけたばかりの紙ゼッケンが、ほんとうに自分の番号を示しているか判断がつかない。どうしようか、と思うが、さほどピンチだとは感じていないからおかしい。だがその一方で、あれ百メートルのレース開始はいつだ、ひょっとしたら三段跳びと時間がかぶっているんじゃないのか、などと訝りはじめる。結局ぼくは、一歩も走っていないし、一回もジャンプしていない。どうしよう。困った。だが別に困らない。レースに出なけりゃいいだけの話だ。だが出ないともったいないかな。それにしても、喉が痛い。あれ、まわりが暗いぞ、喉痛い、うがいしようかな、寒いなあ、冷える、デロンギのオイルヒーターのスイッチ入れなきゃ、寝てたら走れないな……と、次第に蒲団の中で寝ているという現実と夢とがゴチャゴチャになり、あ、これはおかしい、と確信した時には六時五十分、目覚ましをセットした時間の十分前だった。
カミサンは、スピリチュアル・ヒーラーのゆうりさんと会う約束があるとかで、池袋へ外出。ぼくはドウブツたちのメンドウを見ながらひとり仕事に勤しむ。夕方、クリーニングに出したヨウジのセットアップを引き上げに外出。ついでに散歩。今年一番の冷え込み、史上最強の大寒波が来ているというが、風がないせいだろうか、さほど厳しさは感じない。西日本は大荒れのようだが、こちらの空はむしろ穏やかだ。
田中小実昌「ポロポロ」読了。文体がちょっと尾辻克彦とかぶる。尾辻は核心めいた部分に近づくと、ふざけながらチョイと触ってそのまま腰砕けのダッシュで逃げていくようか感覚があるが、コミさんの場合は、ヨタヨタの千鳥足で核心にぶつかっていくような感覚がある。文体が酔っぱらっているから、その核心が何なのかがよくわからない。だが、読み手はそのヨタ足にココロが揺さぶられてしまう。たとえば、こんな描写。《父は、過去のことは、ほとんどはなさなかった。過去はすてたといったふうでもなく、ただ、たんに興味がなかったのだろう。右翼にステッキで目をつかれ、それが、じつはずっと尾をひいて、晩年の父は目が不自由だったのだが、そんな事件は頭のなかになかったのではないか。/だいたい、ポロポロやってると、うしろはふりかえらないようだ。うちの教会では、ポロポロを受ける、と言う。しかし、受けるだけで、持っちゃいけない。いけないというより、ポロポロは持てないのだ。/持ったとたん、ポロポロは死に、ポロポロでなくなってしまう。(中略)だが、ポロポロは宗教経験でさえない。だから、たえず、ポロポロを受けなくてはいけない。受けっぱなしでいるはずのものだ。見当ちがいのたとえかと思うが、これは、断崖から落ちて、落ちっぱなしでいるようなものかもしれない。》
主人公の父は、周囲からまるでキ○ガイのように扱われながらもポロポロをつづける。その動機は、根本的なわけのわからなさにあるようなのだ。ニンゲンは、わけがわからないままに生きる。存在理由だの生まれてきた理由だの、いくら考えてもわかるわけがない。わかった、としても、それはあくまで主観の問題であり、本質的な理由を、核心とともに理解できることはない。その主観を客観的な思想とし、思考の拠り所とすることで精神的な安定、すなわち幸福感を実現するのが宗教であり信仰であるはずだ。だが、主人公の父はその信仰そのものがわからなくなる。わからなくなった自分から出てきて、受け止めたのがポロポロなのだ。だとしたら、ポロポロとはいったい何なのだろう。言葉にならない言葉、信仰にならない信仰、愛にならない愛……なのだろうか。すべて違うような気がする。ポロポロは、異端の牧師であった主人公の父の生き様そのものなのだ。それ以上も、それ以下も、記憶も、忘却も含んだ、とらえようのない何か、ではないだろうか。主人公は、帰宅する前に見かけた男が誰なのかが気になって仕方がない。それを父に話すと、父は死んだ祖父ではないか、今日は祖父の記念日だから、と言う。だが、そのエピソード自体を、後に父は忘れてしまうのだ。その、忘れた父について主人公が語るところで、本編は終る。ラストシーン、引用。《しかし、「記念日なんだから、おじいさんがきたんだよ」と父がわらい、そのあとの(中略)ポロポロで、ふつうの言葉でいうユーレイも、それこそ、ぽろぽろっと消えてしまった。/石段の上でぼくがあった人が死んだおじいさん(中略)だったとしても、そうでないにしても、ただポロポロなのだ。/(中略)くりかえすけど、父にとっては、死んだおじいさんが、記念日の祈祷会の夜にやってきたとしてもポロポロ、ちがう人だとしてもポロポロで、ただ、ポロポロなのだ。》