わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『詩の小路』

「8 歓喜の歌」。シラーの書いた「第九」の原詩を著者が読み解いている。全八連。むちゃくちゃ長かったんですな、原詩は。最後の審判のあとに、地獄なき世を要請する。そんな内容。そして考察はシラーからヘルダーリンへと移る。三十代、精神に不調を来す直前の作「ゲルマニア」を棒訳している。ちょっと引用。

過ぎ去った神々よ、あまりに愛しいからといって、奔ってはならない。そなたたちの美しき面を、時が変わらぬかのように、見つめることは、わたしはおそれる、死に至ることではないのか。滅びた神々を呼び起こすことは、ほとんど許されぬことではないのか。

 信仰の根拠を問い直しているようにも読める。だが著者は、「神々を呼び求めることへの断念」と読みつつも、「新たに近づきつつある神々の降臨への予感、歓喜の予感」も同時にここから読み取り、シラーの「歓喜の歌」との接点を見いだす。断念、諦念もまた信仰という文脈の上では新たな希望、歓喜へと通じる、ということか。だとすれば、希望とは諦めた神と同一なのか、それとも別の新たな神なのか。よくわからん。歓喜というコトバは、ストイックな日本人には理解しにくい難物なのかもしれない。
「9 生きながらの」。リルケ「主よ、あなたはあの聖者たちのことを知っていますか」考。というよりも、西洋版促進仏論考。