わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『詩の小路』

「18 ドゥイノ・エレギー訳文3」「19 ドゥイノ・エレギー訳文4」第四歌は、言葉の端々に、すさまじいエネルギーが感じられる。何だろう、とずっと考えていたが、この日記を書きはじめてようやくわかった。怒りに似ているのだ。ただしこれは、怒りそのものでは決してない。

 一体、死すべき者たちは、人間たちは、われわれのこの世で為すすべてがいかに口実に満ちているかを、推し量れぬものなのか。すべてはそれ自体ではないのだ。幼年の時間を振り返るがよい。そこでは、さまざまな姿かたちの背後にはただの過去以上のものがあり、われわれの前方には未来というものがなかった。いかにも、成長はしてきた。時には、大人であることより他に何もなくなった者たちのことを思って、なかばはそのために、早く大人になろうと急ぐこともあった。それでも、たった一人で行く時には、なお持続するものに自足し、世界と玩具との中間に挟まる時空に、太初より純粋な出来事の場として設けられた境に、あったではないか。
 
 子供の宿命を如実に表わして見せるのは誰か。子供を星座の中においてその手に距離の物差しを持たせるのは誰か。喉の奥に詰まって固くなる灰色の麺麭から、子供の死をつくりなすのは誰か。(後略)

 嘆きとは、運命に対する怒りから沸き起こるものだ。これを読んで、そんなことを思った。