わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『河岸忘日抄』

 若くして他界してしまったらしい妹のことを思い出す主人公。妹は「自由になるためにはぜんぶ捨てなくちゃならない」と信じ、そのために国までも捨てようとしていたが、ある日考えを改める。

 それが、まちがってた。いまこの世界で他人から完璧に離れているなんてとてもできないことだから。自分の領土に赤の他人を引き込んだり、土地をほんのわずかでもひろくしてやろうと、そんな計算ばかりしている人たちには、正真正銘の外側なんて理解できない。外を理解するってことは内にも目をむけるってことでしょ?

 兄である主人公は、今(理由はわからないが)国から離れ、今までの生活の外側にいる。しかし、新たな栖である異国の河岸に泊められた船からほとんど出ることもなく、大家や郵便配達夫といったわずかな人々と交流する他は、ひたすら内省、考えに没頭する生活をつづけている。しかし、彼は「枕木さん」とFAXで交流しつづけることで、外側にいながらもなお内側とつながりをもちつづけている。彼は今、自由なのだろうか。
 大家もまた、以前に似たようなことを口にし、彼に問いを投げ掛けていた。

 たとえ空気がなくても、人間は外に出るべきだ。みんながうわべだけのかたつむりになればいい。それも、嬉々としてな。自分だけのために出ていったことが、実は他人のためになる。そんなふうにあっさり橋がかけられてしまうことにわれわれは驚き、羞恥を恥じ、そしてひそかに励まされる。これこそ世の七不思議じゃないか。薬の切れた私がそれでも散歩に「出ていって」公園で倒れたりしなければ、きみと会うことはなかった。なにしろきみの国は極東にある、極端な東、東の外側にある東だ。わたしにとっての東の端は、きみにとっての西の端だ。さあ、答えなさい、きみとわたしの、どちらが「外」にいるのか?