わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

小島信夫『月光|暮坂』

「白昼夢」。猛暑の中、小島本人と思われる語り手が、彼の電気を執筆する詩人・平光善久宅を訪れたときの、眠れぬ夜の会話が土台になっている作品。平光はスナックのママが、かつて語り手と結婚することになったかもしれぬという話をいいふらしているというエピソードを紹介する。平光は自身の記憶だけを頼りに過去のいきさつを話す。ここまでは、普通の回顧型の小説だった。この作品は、記憶の迷走をもとに書いているわけではないのだな、と受け取り、じゃあ小島は何を語ろうとしているのだろう、と考えながら読んだ。ところが…引用。

 そのように善久がいうのであれば、私は彼がいまいったよりももう少し立ち入ったことを話していたのかもしれない。そのへんのところも、かんじんの話の方もモヤの中にある。ほんとうにあったことだろうか。手応えがなくて、不愉快でさえもある。その気持を押しきって、ムリでも語りはじめれば、芋づる式に出てこないとも限らない。

 うーん。小島は、語り手は完全に小島自身を指す訳ではないという小説の大前提をあえて無視した上で、ここまであたかも確かな記憶に基づいた描写であるかのように、読者に平光との会話を紹介した上で、それらがじつは曖昧な記憶の中にかすかに残るいい加減なものでしかない、ということを暴露する。つまり、この時点でいったん作品世界が作者自身の手によりぶっ壊されたことになる。以後は、壊れた土台の上で怪しげに右往左往する記憶として、しかしあたかも確かに起きた事実のように、平光との会話が描かれるのだ。なんだ、こりゃ。
 うーん。でも、こういう方法論中心の読み方をしちゃいけないんだろうなあ。小島はいったい何を伝えようとしているのだ?