わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『山躁賦』

「海を渡り」。船を降りた主人公は、山岳鉄道とタクシーで弥谷という山ににある寺院へ向かう。どうやら杖や義手義足を奉納することが多い寺らしい。主人公はここで、奉られた食い物の腐る姿、溜まる水の淀む姿を見て「来世を願う心は、清浄を求めぬものなのか」と訝り、また五輪塔の穴に髪の毛や骨や形代を押し込んで、つまり奉って帰る、という風習についても違和を感じる。

 それにしても肉体にこだわる、とふと自身のことともなしに嘆いた。人が死んで、人を葬ったあとも、まだその肉体に、疎みながら泥む、泥みながら疎む。死者の霊の集まる境と称しながら、あくまでも肉体の、死者と我身の肉体の朽ちて行く時間を呼吸しに来る。陰惨の気にいささか馴染んで、死者の霊をあらためて山にあずけ、積もったこだわりを洗って帰り、暮らしの中では相変わらず、死者を肉体として想っている……。

 死者を肉体として想っている。この一文に、はっと息を呑んだ。なるほど、死の悲しみとは、死んだ相手の肉体の喪失の悲しみであると言えなくもない。