わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

立川談志独演会

 遅刻したせいか、拍手はやたらと厚く、熱い。談志師匠、公式サイトの日記を読むとどうも最近モチベーションが下がっているようなのだが、どうやらお歳のせいでカラダが言うことを聞かなくなって来つつあるため、そして現代社会や現代落語界にやるせなさと不満がいっぱいだからではないか、と長い枕を聞いていて思った。ところが、話しはじめるとやはり噺家、高座を務めることが生き甲斐と見え、次第に活力を取り戻したようになってきた。小咄、ジョークを随所にちりばめながら愚痴を話芸として披露できるようになっている。最初の枕で、というわけだから今日は「かぼちゃ屋」という与太郎話と「芝浜」を演る、と話してしまったときには会場が沸いた。談志の芝浜が聞けるとは!

 いわゆる与太郎話。与太郎が、近所のおじさんに「商人の息子らしく商売してみろ。かぼちゃがあるから、それを往来で売ってこい」と言われ、売る。ただし、与太郎だから普通に売るはずもなく……。
 古典にはない演目だと思うが、どうやら談志師匠の創作らしく「まだ完成していない」と言っていた。師匠、枕では知的障害者の親子には、他人が踏み入れられないほどの愛情が満ちている、と話していた。与太郎は単純に考えると現代で言えば知的障害者なのだが、それにしてはシャレが聞きすぎていて理知的だ。師匠は知能犯、確信犯としての与太郎をつくりたい、と考えているらしい。その観点から見れば、確かにこの噺はまだ発展途上。
 また、この噺を演ったのは、どうやらニート問題などを強く意識してのことらしい。談志師匠は常に社会に目を向けている。落語の世界ではまともな社会はこきおろしの対象だが、談志師匠にとっては笑いや情緒を通じての批判と変革の対象なのかもしれない。
 師匠、この噺のサゲを演った後、引っ込むかと思ったらそのまま話(枕、とは言わないよな…)をつづけてしまった。この演目の自身による解説(笑)、そして「オレは『文七元結』の後日談を演ったことがあるんだ」という話。もう、なんでもありだな、このひとは。

  • 芝浜/談志

 談志といえば、やはりこの演目か。人情噺。大衆小説的な「泣ける」噺にまで昇華しているのは、現代にも通用する形でのきめ細やかな心理描写あってのことだろう。師匠のするどい人間観察眼が活かされている。