わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

通り雪

 六時四十分起床。昨日の頭痛、まだ引きずっているようだ。三時過ぎ、花子にゴハンをせがまれ起き上がったときは、ぼんやり痛む感覚が、鈍痛なのか、寝ぼけて痛みが拡散しているように思えるだけなのかがよくわからず、まあいいや、花子にゴハンあげたら寝ちゃえ、寝ればなおるさ、と二度寝を決め込んだのだが、起きたところで、その拡散する痛みはまるで変わらず、じゃあ治るまでもう少し寝ようかと思ったが仕事があるのでそうもいかず。
 冷え込みが普段よりいくぶん厳しい朝。身支度、仕事。掃除、仕事。十一時過ぎ、カミサンと青梅街道沿いの「クイーンズ伊勢丹」まで散歩する。薄い灰色の平坦な空から、風花か、白いものがチラチラと舞い降りてくる。気付いたら大きな雪となっていた。しかし空は雪の降る日の表情ではない。重く垂れ込め、妙な冷えと湿気が同居した感覚が希薄で、舞う雪を見ているとなんとなく調子が狂う。案の定、家に着くころにはすっかり止んだ。通り雪とでもいおうか、不思議な天気だった。
 午後も仕事。夕方いっぱいまでかかると踏んでいたが、十五時には目処が付いた。あとは読書して過ごす。このころには、頭痛もすっかり治まった。
 夜は義母からいただいた、ブランド名のついたナントカ牛の、赤身より脂肪のほうが多いんじゃないかというほどものすごい霜降りのでっかいステーキ肉をクレージーソルトでさっと焼いて食べた。臭みが少なく美味であったが、ちょっと脂に負けてしまいそう。少々もたれた。
 ドラマ「演歌の女王」を観る。現代日本のきったねえ部分、新聞の社会面を開けば載っていそうで、社会問題にもなっていて、しかしそれらひとつひとつはすぐにひとびとの記憶から消えてしまう、そんな小さな、しかしきったねえ、不幸な部分をオンパレード化し、パロディの手法でそれを悲壮悲惨にすることなく物語化しているわけだが、この作品を貫く「おせっかい」が、一体どんな方向へ向かうのか、作り手は今の社会状況とおせっかいをどう結びつけたいのか、が見えるようで見えない。こういうドラマのつくり方は、いかにも日テレ風。フジテレビだったら、初回からストレートにメッセージ発信しまくりになるだろう。