わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

山岡頼広「私小説と悪」

 これも「群像」より。秋山駿の『私小説という人生』という評論の書評。明治以降、日本の私小説作家は、そして評論家(=小林秀雄ってことみたいだけど)はつねに「劇」の不在と「告白」の不能と戦わねばならなかった、といった主旨のことが書かれているようなのだけれど(これはこれで非常に興味をそそられた)、それよりもなによりも、この書評の冒頭にあった「タカアンドトシ」の「欧米か!」についての鋭い分析が冴えまくっているので、引用。

「欧米か!」というギャグが大受けしている。横文字を乱発するボケ役の男に突っ込みを入れる単純なものなのに、どうして面白いのだろうか。考えてみれば、「欧米」という言葉そのものが、アナクロニズムを含んでいる。明治維新以後、この国ほど急激な欧米化を実現した国はない。西洋を幾分なりとも底上げしてみにつけて、内心にボケと突っ込みを秘めながら、暗黙の了解のうちに器用に振る舞っている。このギャグは、そんな我々の身体に今も残存している「羞恥」や「痛み」の記憶をチクチクと衝く。人はそこに、自虐的ながらも共同性の原野をみつけ、屈折した共感とともに爆発的に笑うのだった。

 うーん、タカアンドトシに読ませたい。そのあと、どのようにぼけ、どのようにつっこんでくれるのだろう。
 えーと、秋山駿の『私小説という人生』でタカアンドトシ論が展開されているわけではないので要注意。述べられているのは花袋アンド泡鳴、中也アンド秀雄とかである。

私小説という人生

私小説という人生