わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

澄耳/迷便

 ざわめいた気配に目覚めることがある。決まって六時四十五分くらいだ。ひとの声が耳につくわけではない。同じマンションに住む隣の、あるいは上下の家族の身支度の音が壁越しに響くわけでもない。眠っていた空気が、一斉に起き上がる。抽象的な表現だが、こう書くのがいちばんふさわしいのはどういうわけか。聴覚が、眠りから覚めるよりも先に機敏に動き出す、ということか。目覚めとは、イマドキらしくコンピュータ用語を使えば、理性というOSが起動するということだろう。ならば、理性には左右されぬ(はずの)感覚だけが、表層意識を飛び越えたところで、研ぎ澄まされ、思わぬちからを発揮するということはあるのかもしれぬ。今朝もぼくは、耳を澄ましながら目を覚ます。六時五十分。
 昨夜のうちに書いておいたコピーを朝一番で読み直し、手直しし、先方が営業をはじめる前にメールで納品する。そんな流れがここ数日つづいている。今朝もおなじパターンで仕事をした。ところが今朝は、よしチェックは済んだ、あとはファイル形式を先方も読めるように変換し、メールを書いて添付するだけ、という段階になって便意をもよおしてしまったので困った。この手の作業を中途半端にしておくのが苦手だ。ウンコをガマンしたまま仕事を進めることになる。こんなときは決まって集中力が欠ける。仕事自体はたいした作業ではないものの、たとえば、日本語変換を間違えたままリターンキーで確定してしまう。慌てて文字を消すが、再度入力しても、また同じ誤変換を呼び出してしまう。無益な繰り返し。ウンコしたい欲求はどんどん高まる。結局、仕事の手を休めて便所に行くことになる。が、活字中毒のぼくはトイレに本なり新聞をもっていかないと落ち着いて排便できない。さてウンコしながら何を読むか、こんなときに限ってつまらぬことで悩んでしまう。肛門を締め、腰をかがめて微妙にくねらせながら、新聞にしようか、それじゃ日経と朝日、どっちにするか、おっと昨日の夕刊が読みかけだった、朝刊と夕刊はどちらを読もうか、などとしているうちに、大腸は極限状態になる。だが、漏らすことはない。大人だから。
 終日、仕事。