わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

大江健三郎「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」

「新潮」6月号より。序章「なんだ君はこんなところにいるのか」、第一章「ミヒャエル・コールハース計画」の二章分が掲載されている。短期集中連載されるとのこと。単行本化は今冬、来春くらいかな。
 最新作である「おかしな二人組」三部作は大江自身をモデルにした長江古義人が主人公で、息子の光をモデルにしたアカリ、伊丹十三をモデルにした(と思われる)塙吾良が登場するが、本作の主人公はどうやら大江自身らしい(むろん架空の存在としての大江健三郎だが)。光も「光」として登場する。しかし、伊丹十三らしき人物はなぜか「塙吾良」のままである。意図的な設定なのだろうが、これをどう解釈すべきか。うーん。
 書き出しの描写は、散歩というごく日常的なシーンにも関わらず文体が硬質で大江らしからぬ雰囲気。過去の記憶と現代を往復するように進む物語は『万延元年のフットボール』あたりを彷彿とさせる構成だが、例に寄って文学テクストを読み解くようにしながら、登場人物同士の冗長的な会話から成立するという手法は相変わらずのようで、会話の部分を読んでいると、あまり斬新な感じはしない。
 そして、これまで以上に大江が「老いた作家」として描かれている。これが少々自虐的で、読むのがつらくなる。