わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』

 ニンゲンの人生は生老病死とひとくくりに言われることが多いが、本作はこのうち、老病死のみっつを私的な体験を通じて徹底的に掘り下げ「詩」として、コトバのリズムをもった言語芸術として昇華させようとしている。熊本に住む詩人の両親の、母は病に倒れ入院し、父はパーキンソン病に苦しみ要介護1の指定を受けながらも、ヘルパーの力を借りつつ犬とともになんとか生活をつづける。引用。

 カリフォルニアにいるときは父に電話をいたします。朝にして、昼にして、夜にします。以前はおっくうがって話したがらなかったのに、今はよく話します。聞こえないので話がちぐはぐになることもありますし、興味の範囲は狭まっておりますから、犬のこと母のこと自分のこと、時代小説と野球のことくらいしか話題にはできません。でも話します。そして実を申せば、わたしはわたしの父親が、体臭が臭くて煙草臭くて近づきたくなかったのに近づかないでいられなかったあの父親が、死んでまたよみがえってきたような気がするのです。
 夢を見てもそれを話す相手がないしさ、と父が悲しげな声色で申しました。

 苦しみを苦しみとして受け止め、苦しみとして詩(散文詩)の形に表現する。この過程のなかで、比呂美ねーさんは「とげ抜き」すなわち自己救済をしているのかもしれない。詩人は、詩にすがるしか救われる道はないのだ。なぜなら、すがるべき神さえも詩に読むのが詩人なのだから。