小説ということで発表されたが、言語感覚は限りなく散文詩に近い。というより、根っこの部分が近作(で、傑作の)『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』とおなじだと思った。散文詩と小説の境界線って、なんだろう。
「ハウス・プラント」と表題作の二篇が収録されている。詩人的な(というより、比呂美ねーさんらしい)感覚に満ちた「ハウス・プラント」の冒頭を引用。
外に出てくると日ざしがまぬけにもカリフォルニアなので、からかわれているような気がしました。あたしが何をしていようと、生理的にどんな状態であろうと、それはなんにも変わらないのです。その、すっきりと晴れわたった青空。
さっきまであたしは、密閉された、日のささない場所で、だらだら汗を流していました。それなのに外に出てくれば、この日ざし、ごはさんにねがいましては。
ごはさんにねがいましては、と、むかし東京の裏町の、路地を入ったとこにあったそろばん塾の前を通ったときにいつも聞こえてきたおとなの男の声が、あたしの耳にきこえてくるようなかんかん照りです。
かんかん照り。それはちがう。そんな暑さではないですね。暑くないんですね。ところがどんなに考えてもしっくりくることばがないんです。秋晴れとか日本晴れとか小春日和とか、それはぜんぶ秋ですから。
今は春です。ただの晴れた春の一日です。それでも、この光の強さは、まさにかんかん照りとしかいいようがなくて。
なんなんだ、この情景描写は。自分の記憶と皮膚感覚が作品の中心にドンと突っ立っている。この柱の上に立ったり影に隠れたりしながら、あらゆる事象を観て、描写していこうということか。ならば、それは詩ではないか。この言葉には、韻めいたもの(安っぽいラップの韻ではなくて、もっととらえどころのない現代詩特有の韻らしからぬ韻というか…)がたしかに存在する。
もう一箇所、理由はわからないんだけれど妙に惹かれてしまった描写があるので、意味もなく引用。
いいかげんに今は駐車場に戻らないと。
現実のあたしの車は、カリフォルニアの日ざしにすっかりあたたまっていました。あたしが中に乗りこむやいなや、サングラスはたちまち汗で曇り、おっとーこれは、とあたしは思った。何か思い出して。何だったか、つぎの瞬間に思い出したのは、ラーメンを食べたときの感覚でした。どんぶりに向かう、めがねが曇る。めがねが曇って何も見えない、ラーメンも見えない、なんて考えながら、エアコンをきかせてもいっこうにサングラスの曇りは晴れないし、サングラスをとったらまぶしくて何も見えないし、しょうがないから窓を開ける。空が青い。もうばかみたいに青い。ここまで青くなくても、というくらいに青い。
ゆくてにはユーカリの木が繁っていました。