表題作「ラニーニャ」を読みはじめる。カリフォルニアを襲う豪雨の中をドライブする語り手「あたし」とふたりの子どもは、あちこちでクルマが事故っているのを見かける。
気象の描写に、エルニーニョ/ラニーニャの「性」の話が重なり、季節の描写が重なり、植物の変化の描写が重なり、うろ覚えの歌が重なり、家族の記憶が重なり……。まだこのあとどのような展開になるのかがさっぱり見えないけれど、「ハウス・プラント」がバラバラした感覚を中心にバラバラと作品が進んでいくのに対し、こちらは着実に、すこしずつ何かが起こる予感を感じさせるような、ジャブを何度も何度も打ち込んでいくような。
なぜ気になるのかわからないし、気になっているところが本作を読む上で重要なのかどうかもわからないけれど、とりあえず引用。まずは語り手「あたし」が自動車の中で大好きなうろ覚えの歌を「おまじない」のように歌うところ。
この歌も、あたしは歌ってるつもりなんですが、人が聞けばお経かもしれません。あたしにはわからないです、他人にどう聞こえているか、あたしの聞いてるものが他人にも同じように聞こえているか。何も自信がありません。
ことばならわかります。使えるっていう自信もある。だから歌じゃなくておまじないなら、どんなことばだって高らかに唱えられるんです。
つづいて、事故車を目撃したシーン。
あい子もグミもとっくに気がついていました。おかあさん、また事故、おかあさん、ほらぐしゃぐしゃ、おかあさん、人が車の中にいたよ、とあい子もグミもはしゃいで。どうして事故は、こんなに気持ちを引き立てるんでしょう。でもどこかすごく真剣になっちゃって。狩られているときってこんな感じかもしれない。ねー、そうじゃない、よい狩りをっていいたくならない、とあたしは子どもたちにいいました。
そういえば、狩人が解散コンサートをやったなあ。関係ないけど。
もうひとつ。語り手が、子どもを連れて「竹が打ち上げられた」らしい浜辺に行く理由を語る部分。
荒れた果てたところに立つと、いつだって、どこかに行かれるような気がしました。それを期待していたところもあったんです。それならほんとは一人で見に来るべきだったんですけど。やっぱり子連れじゃどこかに行こうにも足を取られちゃって。