連作短編集。ひとつめの「植物園」を読みはじめる。
硬質で緻密な文体が、固いまま観念の波となってうねりながら押し寄せる。そんな印象を受けた。描写に想像力が紛れ込み、そのはしばしに、真理(らしきもの)が見え隠れする。重くて変則的なリズム。書き出しを、ちょっと引用。
しかし幸いなことに長く続いた夏の陽射しもようやく翳りを見せてうにやひとでややどかりや小魚たちがめいめいひっそり生きている静かな潮溜まりも薄明薄暗の中に沈み込んでいゆくようだった。いつの間にかいきものたちが一つまた一つと動きを止めてこれからどれほど続くとも知れぬ夜の中に入ってゆく準備を整えなければならない時刻になっているようだった。いずれその夜が明けまた灼熱の光が戻ってくることがあるのかどうか、そんなことはその小さないきものたちにとっては知るすべもないことだった。たとえば人々の生きているこの現世の全体がもしそんな海辺の片隅の潮溜まりの一つでしかないとしたら、やどかりや小魚にとっての人間のような邪悪な存在のふとした気まぐれである日何の前触れもなしにいきなり岩が落ち水が濁ってこの世界そのものがあっけなく消滅してしまうことも十分ありうるだろう。潮流の温度が変わるなり自身でがけが崩れ土砂で押しつぶされるなりすればかろうじて保たれていたこの生態系の均等はひとたまりもなく崩れてしまうだろう。ひょっとしたらもうこの現世はそんなふうにとっくのとうに崩壊し誰も棲めない環境と化していて、この無数の人間どもが泣いたり笑ったりしながら営んでいる日々の暮らしもやどかりが殻の中で見るささやかな夢まぼろしでしかないのかもしれない。しかし幸いなことにもう夏の陽射しは緩やかに尽きかけていてあとはただ終わりの彼方の時間をけだるく生きる幸福な権利が残っているだけだった。
最初の一行と最後の一行の連携。この構造、おもしろいなあ。
- 作者: 松浦寿輝
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