「雨宿り」。笹山という六十過ぎの男が、二十数年前に踏み切りのそばの民家の軒で雨宿りした際、老人と居合わせたことを思い出す、というだけの話なのだけれど…。笹山は、踏み切りの向こう側に死のイメージを読み取る。
大切なひとを失っても、そのひとは自分の中で存在しつづける。しかし、死んだ事実に変わりはない。そして、意識的にであれ無意識的にであれ、そのひとの死を受け入れ死を思いつづけているうちに、死者の存在はますます心の中で大きくなり、ときには自分自身より強い存在感となる。自身もまたすでに死に、死した後に自分を回想しているような気分になることもあるか。引用。
人はとかく、踏切りを渡る時に、失踪しているのかもしれない。自分が失踪しているともつゆ知らず同じ暮らしを続けていると考えればおかしい。しかし失踪後の自分を生きているとすれば、失踪以前の自分を、死んでいることになるのか。(中略)肉親の死後を生きているということを、折りに触れて意識させられると、自身もすでに自身の、生前をまだ生きているような心地へ惹きこまれる。まして兄のなくなる半年前には自身、手術の日を待って、命を一日ずつ、先へ送って暮らした時期がある。昨日がもう思い出せぬほどに遠くなり、明日へ繰り越されるだけの今日だった。母親はもう三十年も、死んでいる、と数えて、その持続のほうが、刻々の間へ狭められていく自分の現在よりも、確かな存在に感じられた。
- 作者: 古井由吉
- 出版社/メーカー: 講談社
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