わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

今日の空

 天気予報に一喜一憂するとは情けない。書斎に籠ってただひたすらにアイデアをひねったりコトバをひねり出したり、気晴らしに散歩に出るか打ち合わせの必要に駆られてか、その程度の理由でしか外出などしないというのに、おそらくは普通のひと以上に空模様に敏感なのはどういうわけか。そのくせ、人様と会っても天気をネタに社交辞令的な挨拶をかわすということがない。相手様の顔が見えたらまずは一言挨拶し、会議室なりミーティング用のブースなりに通されるまではほとんど自らコトバを発せず、さて打ち合わせを、となると、芸人とすり替わったかのようにあれこれと話を重ね、くだらぬ駄洒落や時事ネタの毒舌系ギャグなどまるで必要ないというのにわざわざ口にし、訪問先や同席者を閉口させてしまう。そこに空模様のことなどまるで入り込む余地はない。相手が話題にするまで、決して語らない。おそらく空とは万人の共有物である反面、その刹那刹那に見つけた空の表情というものは個人だけのものだ、という思い込みがあるのではないか、と自分では(他人事のように、ではあるが)考えている。今日の空は白い。白い空から白い雪が舞っている。九時起床。
 調子に乗って、猫たちに外を見せてみる。麦次郎はちょいと空を眺めたものの、寒いからもういいです、とすぐに引っ込み電気ストーブの前に退散。花子も似たようなもので、開け放った窓からちょいと首を出して空を眺めて見たものの、寒いよ、とすぐにその場を離れ、デロンギのオイルヒーターの前に陣取っている。
 昼食後は読書、Macのユーザー辞書の移転など。ディスコンが決定しいずれサポートが終了するegbridge universalをいつまでも使いつづけるよりは、早めにことえりに慣れたほうがいいだろう、という判断。egには愛着があるのだが、ソフトウェアに執着したり懐古趣味に走ったりする嗜好性はあいにくぼくにはない。今、この日記はことえりで書いているのだが、ほとんど違和感がないので助かっている。おそらくは、変換機能が未成熟だった頃からワープロMacを利用しつづけていたので、単文節ごとに変換するくせがついているからだと思う。不自由があるとすれば、ショートカットキーが異なることくらいか。
 夕方、雪の中外出へ。義母が恵方巻きをつくってくれたというのでカミサンと取りに行くことに。善福寺川沿いの遊歩道を歩けば環八にぶつかる。そこを右手に数十メートル歩けば義父母宅なのだが、こんな空模様の日には人通りの少ない遊歩道には積雪が多く坂道も多いので少々あぶない。クルマやひとの足が適度に雪を踏み溶かしてくれている一般道を歩くことにした。ネコもスズメもヒヨドリカルガモも見かけない。植物たちだけが、重たそうに湿った雪を葉の落ちた枝や常緑の葉に乗せ、じっとたたずんでいる。時折、その横をポケットに手を突っ込んだニンゲンや、ニンゲンに抱かれた犬が通る。
 恵方巻きと(なぜか)日本酒一升をいただき、お茶を飲んでから帰宅。
 恵方巻きとイワシの梅煮で夕食。夜は炭水化物を摂らない主義だが、今日は特別。
 食後は豆まきをした。きょうび、大豆も決して安くはない。数粒握って勢いよく撒くのではなく、一粒つまんではそっと放る。猫が少しだけ気にしていたが、子猫のころのように床を転がる豆を全速力で追いかけたり、豆でひとりホッケーを楽しんだりすることは、もうない。